阿部監督辞任問題から考える「人の過ちと再起を許す社会」

正しさの先にあるもの

巨人・阿部監督に関するニュースを見て、ずっと心に引っかかっていることがある。

暴力という行為自体は、当然ながら肯定できるものではない。
それはシンプルに「ダメなこと」であり、そこに議論の余地はないと思う。

ただ、その行為と「監督辞任」というペナルティの重さのバランスについては、正直、違和感を覚えている。

罰は必要だ。
しかし、罰の重さはこの行為と本当に釣り合っているのか、、、

スポーツ選手や指導者は、人気商売である。
影響力が大きいからこそ、その「あり方」は常に問われるし、世間の目も厳しい。

企業としても、球団としても、説明責任やブランドを守るために、厳しい判断をせざるを得なかった事情は理解できる。
むしろ「そうするしかなかった」のかもしれない。

それでもなお、感じてしまうのは、社会が一斉に「その人のすべて」を否定しているようにも見える現状だ。

ここに、少し怖さを感じている。

人は、過ちを犯す。

人だから必ずだ、、、しかも誰もがだ

もちろん、その内容によって許されない領域があるのも事実だ。
今回の件についても、暴力である以上、軽く流していい性質のものではない。

だが、それでも「即座に抹殺」という空気感には、強い違和感が残る。

過ち=すべての否定
になってしまう社会は、果たして健全なのか。

少し時間を置いて、しっかり反省する。
そして、また戻ってくることも出来る、、、

そんな選択肢があってもいいはずだと思う。

むしろ、人間としての価値は、その「立ち直り方」にこそ表れるのではないか。

大きな声で批判する言葉は、どうしても目立つ。
SNSを開けば、断罪の言葉が並ぶ。

だが一方で、声には出さず、静かに見守っている人たちも確実にいる。

「戻ってきてほしい」と思っている人。
「人としてやり直してほしい」と願っている人。

そういう存在は、決して少なくないはずだ

世の中は、決して白か黒だけではない。

ただやみくもに正しさを追求することで誰かを押し潰すものであってはいけないとも思う。

だからこそ、願いたい。

過ちはしっかり向き合い、償い、反省する。
そのうえで、もう一度立ち上がる機会が与えられる社会であってほしい。

世の中、捨てたものじゃない。

そう思える余白が、まだ残っていると信じたい。

投稿者: Keiichi Nakadai

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