コストのことを一旦脇に置くなら、戸別回収の方向へ進むのは自然な流れだろう。
利便性、安全性、そして高齢者配慮という観点では、明らかに合理性がある。
それこそ価値観が多様化し、誰もが忙しい社会になった今、公共のごみステーションを共同で維持・管理すること自体が難しくなっている。かつては“地域の当たり前”として成立していた相互扶助の仕組みも、ライフスタイルの分断やコミュニティの希薄化によって機能しにくくなっているのが現実だ。
つまり、ごみステーションは単なるインフラではなく、「地域コミュニティの前提」に依存した仕組みだったということだ。その前提が崩れてきている以上、制度の見直しが求められるのは当然とも言える。
しかし、ここで見落としてはならない本質がある。
それが「コストの所在」だ。
ごみ処分には当然コストがかかる。回収にもコストがかかる。
にもかかわらず、多くの人はそれを“無料”だと認識している。
だが実態は違う。
政治的・制度的な設計によって表面上無料に見えているだけで、裏側では確実に税金として徴収されている。つまり、費用が消えているのではなく、「見えなくなっている」だけだ。
この構造が議論を歪める。
戸別回収を導入すればコストは上がる。
では、そのコスト増を誰が負担するのか。
税金で吸収するのか。
それとも利用者負担にシフトするのか。
ここを曖昧にしたまま「便利だから」「高齢者に優しいから」と進めてしまうと、別の不公平を生み出すことになる。
自分は、社会的弱者を支えること自体には全面的に賛成だ。
高齢者や身体的に困難を抱える人が、無理なく生活できる環境を整えることは、社会としての責任でもある。
ただし、それは「無条件の権利」とは少し違う話だとも思う。
サービスにはコストがかかる。
便益を得るなら、それに応じた負担が発生する――この原則から目を背けるべきではない。
例えば、
・基本はステーション回収だが、戸別回収は有料オプションとする
・一定条件(高齢者・要支援など)に該当する場合は減免する
・ごみの量に応じた従量課金を導入する
こうした設計であれば、「必要な人には支援を」「それ以外は受益者負担で」というバランスが取れる。
重要なのは、感情論ではなく設計論で考えることだ。
ごみ行政は「誰かがやってくれるもの」ではない。
社会全体でコストをどう分担し、どう納得感を作るかという合意形成の問題である。
戸別回収の議論は、その本質を浮き彫りにしている。
便利さを選ぶのか、効率を取るのか。
公平性をどう担保するのか。
そして、コストを誰がどのように負担するのか。
答えは一つではない。
だからこそ、見えないコストを見える形にしながら、丁寧に選択していく必要があるのだろう。