ふと5年前の状況と今を想う
「全否定からの大返し」を誓ってから5年が経った。
あのとき 積み上げてきたものも、肩書きも、常識も、いったん全部横に置いた。
では今——あの“大返し”はなったのだろうか。
どこかピンときていないのが今の正直な感覚だ
まずは収入面。
当時は「ここが成ってこそ、すべてが成り立つ」と思っていた。いわば問いの中心だった。だが今、ピーク時よりも恵まれている状況、、、むしろ追い越した感があるにもかかわらず、あのとき思い描いていたような達成感や決着感はない。
ただ一つ、間違いないことがある。
あのままの道を歩き続けていたら、今のこの場所には絶対に辿り着いていなかったということだ。
でもそうなのにこれ、、、とむしろ拍子抜けに近い感覚すらある。
一度、丸裸になった。
頼るものも、拠り所も、肩書きもない状態で自ら飛び込んだ。
だからこそ得られたものがある。
一番大きいのは、「こうあらねばならない」という自分自身への縛りから解かれたことだ。
あの頃は、自分をがんじがらめにしていた。
その縛りがあったからこそ成立していた部分も確かにある、、、だが同時に、縛り過ぎていた分、とにかく窮屈だった。
前に進んでいるつもりで、実際は息絶え絶えだったのだ、、、
今の自分は、義務と権利の狭間で綱渡りしながらではあるが自由を得てはいる。
そう、、、自由とは何も縛られないということではない。
むしろ逆だ。
自分で責務を引き受け、その結果を出し続けなければ、いとも簡単に再び丸裸になる。
会社員だった頃は、ある意味で「敵」がはっきりしていた。
組織であり、上司であり、同僚であり——外側に対峙すべき対象があった。
しかし今は違う。
一番の敵は、紛れもなく自分自身だ。
決められたタスクはない。
ここまでやれば評価される、誰かがフォローしてくれる、という前提もない。
その“見えない状態”こそが、今の難しさであり、面白さでもある。
そして、この感覚こそが——
「大返しはなった」と言い切れない理由なのかもしれない。
どこかに“はい、これで一丁上がり”というゴールがあると思っていた。
だが実際には、そんなものは用意されていない。
だからいいのだと思う。
あのときの選択に、明確な完了はない。
ただ連続していくだけだ。
5年経ってなお、問いは続いている。
だがそれは、失敗でも未達でもなく、「生きている」ということなのだろう。
人生は、まだ続く
この不満足こそ、生きているってことなのかもしれない
well being それではまた!!