草むしりの1時間が教えてくれること
~合理性だけでは測れない地域とのつながり~
定期的に回ってくる近所の草むしりの日。「本当に住民がやる必要があるのだろうか」と思うこともある。
自治会にはある程度の内部留保もあるし、専門の業者に委託した方が効率的だ。作業の質も高く、短時間で綺麗に仕上がる。合理性だけを追求するなら、その選択肢は十分にありだと思う。
しかし、その一方で毎回参加する意味も確かにある。
草むしりの1時間ほどの間、普段はなかなか会話をする機会のない近所の方々と顔を合わせる。そのことに、実は大きな意味があるのではないかと感じている。
特別に親しくなる必要はない。
飲みに行くわけでもなく、頻繁に交流するわけでもない。
それでも「ああ、元気そうだな」「しばらく見なかったけれど顔を見られてよかった」といった、緩やかなつながりが生まれる。この何気ない関係性が、地域の安心感につながっているように思う。
人は孤立すると不安になるが、顔見知りがいるだけで心は少し軽くなる。
地域コミュニティの価値とは、案外そういうところにあるのかもしれない。
もう一つ感じるのは、「自分ごと」として関わる意味だ。
専門業者に任せれば、私たちは汗をかかなくて済む。
しかし、自分たちが暮らしている地域を自分たちの手で少しでもきれいにする。そのために汗を流す行為には、お金では買えない価値があるように思う。
草を抜きながら、「ここに住んでいるのは自分たちなんだ」と改めて実感する。
それは効率や生産性とは別の、人としての充足感につながっている。
考えてみると、これも小さなボランティア活動と言えるのではないだろうか。
誰かに感謝されるわけでもなく、表彰されるわけでもない。
それでも地域のためにほんの少し時間と労力を使う。
その結果、街がきれいになり、近所との緩やかなつながりが生まれ、自分自身にも充足感が残る。
費用対効果や合理性だけでは説明できない価値が、そこには確かに存在している。
草むしりを終えて帰宅した後の心地よい疲労感。
それは単に草を抜いたからではなく、自分が暮らす地域の一員として、ほんの少し役割を果たせたという満足感なのだと思う。
合理性を考えれば外部委託も正解だろう。
しかし、人と人とのつながりや地域への愛着を育むという意味では、住民が一緒に汗を流す時間もまた、かけがえのない価値を持っている。
そんなことを、今日の草むしりで改めて感じた。