最新ゴルフシューズが教えてくれた「A or B」から「A and B」の時代へ

先日、ゴルフシューズを最新のトップメーカーのスパイクモデルに買い替えてみた。

履いてまず驚いたのは、その完成度だ。

スイング時の安定感は非常に高い。

しっかり地面を捉え、踏ん張りも効く。

一方で、歩きにくいかと言われると全くそんなことはない。

むしろ驚くほど歩きやすい、、、

ゴルフを長くやっていると分かるが、少し前まではここに大きなトレードオフが存在した。

グリップ力を高めれば、その分だけ歩きやすさは犠牲になる。

歩きやすさを優先すれば、安定感は落ちる。

つまり、

「グリップ力」か 「歩きやすさ」か

の二択の世界だった。

しかし、最新のシューズは違う。

グリップ力も高い、、、

歩きやすさもある、、、

まさに「A or B」ではなく、「A and B」を実現している。

これを見ていて、仕事や経営も同じだと感じた。

昔は、

売上か品質か、、、

スピードか正確性か、、、

働きやすさか成果か、、、

そんな二者択一の議論がよくあった。

しかし今の時代、それでは要件として足りない。

顧客は両方を求める、、、

従業員も両方を求める、、、

市場も両方を求める、、、

つまり、

売上も品質も。

スピードも正確性も。

働きやすさも成果も。

実現することが求められている。

もちろん簡単ではない。

しかし、だからこそ技術革新や新しい仕組みが生まれている。

今回のゴルフシューズは、その象徴のように感じた。

「昔はこうだった」

「どうせ両立なんてできない」

そう思い込んでいると、大きな変化を見逃してしまう。

実際に履いてみるまでは、私自身も半信半疑だった。

けれど体験してみると、その進化は想像以上だった。

だからこそ、新しいものを必要以上に恐れる必要はない。

もちろん何でも飛びつけば良いわけではない。

しかし、過去の常識だけで判断してしまうのも危険だ。

時代は確実に進化している。

ゴルフシューズひとつ取ってみても、それがよく分かる。

「AかBか」ではなく「AもBも」。

そんな時代だからこそ、新しいものはまず試してみる。

その姿勢こそが、仕事でも人生でも可能性を広げるのだと思う。

「やったほうが良かった」はなぜ問題なのか ― 政治家ほど気を付けなければならない言葉の重み

先日、自民党福岡県議団のトップが関係する政治資金パーティについて、災害が発生している状況下で開催されたこと、そしてその後の「やったほうが良かった」という趣旨の発言が報じられ、大きな議論となった。

正直に言うと、報道の切り取られ方もあったのだろうと思う。

おそらく本人が本当に言いたかったのは、

「パーティ自体で多くの方と直接話ができた」 「フェイス・トゥ・フェイスだからこそ聞けた本音があった」 「結果として得るものはあった」

ということであったんだろう

人と人が直接会って話す価値は確かにある、、、

オンラインでは伝わらない空気感もある、、、

だから、その部分だけを切り取れば「開催して良かった」という思いは理解できなくもない。

しかし、それでも「やったほうが良かった」はない。

なぜなら、その価値は別にこのタイミングでなければ得られないものではないからだ。

本音を聞く機会も、交流の場も、別の日に設けることができる。

一方で、災害が起きている最中という状況は、その時しかない。

だからこそ多くの人は違和感を持ったのだと思う。

私はこの件を見ていて、政治家特有の現象も感じた。

政治家は人前で話すことに慣れている。

質問にも即座に答える。

コメントも次々に出てくる。

しかし、その能力は時として諸刃の剣になる。

言葉が出るからこそ、余計な一言も出る。

説明しようとしてさらに言葉を重ねる。

結果として、本来伝えたかったこと以上のものが伝わってしまう。

今回もそうだったのではないだろうか。

そしてもう一つ、、、

これは政治家に限らず、組織の上位者にも共通する話だ。

長く権限を持ち、多くの人に囲まれていると、

「自分は少し特別だ」

という感覚が知らず知らずのうちに生まれることがある。

少し毒のある発言をした方が受ける。

少し踏み込んだ表現の方が注目される。

少し強めに言っても大丈夫。

そんな慢心が生まれていないか。

今回の発言を見ていると、そんな疑問も感じてしまう。

もちろん、報道だけで全てを判断するべきではない。

発言の前後にはもっと文脈があったのかもしれない。

だからこそ問題の本質は、「本当は何を言いたかったのか」だけではない。

「なぜその言葉を選んでしまったのか」だと思う。

リーダーや政治家に求められるのは、話す力だけではない。

話さない力であり、踏みとどまる力であり、相手がどう受け取るかを考える力だ。

今回の件は、報道の切り取り方を嘆く前に、

「自分は少し調子に乗っていなかったか」 「自分だけは大丈夫だと思っていなかったか」

を自省する機会なのかもしれない。

立場が上になればなるほど、言葉の責任は重くなる。

そして本当に問われるのは、失言した後の言い訳ではなく、その失言から何を学ぶかなのだ。

「許可が、、、」では済まされない ― 熊本地震を経験した地域で起きた痛ましい事故から考えるリーダーの責任

先日報じられた事故に、強い痛みを覚えた。

熊本地震で甚大な被害を受けた地域において、一旦避難していた従業員が、売上金を金庫に戻すため再び建物内へ入り、その後発生した爆発事故に巻き込まれて帰らぬ人となったという内容だ。

報道では「イオン側の許可を得てからで、、、」といった趣旨も伝えられている。実際に再入館したという事実からすれば、確認はしたのかもしれないが今となっては分からない

しかし、「許可が出たか出なかったか」が全く本質ではないということだ。

地震発生直後に、施設管理者側が建物の安全を100%確認できているはずがない。ましてほんの10年ほど前に熊本地震という大災害を経験した地域である。構造物の損傷、ガス漏れ、設備異常など、目に見えないリスクはいくらでも存在する、、、報道に出ていないが難しい状況になっていることは容易に想像できる

だから本来、「入っても大丈夫です」と断定的に許可できる状況ではなかったはずだ。

おそらく現場では、

「戻れるなら戻ってください」 「可能であれば対応してください」

というようなやり取りだったのかもしれない。

しかし、発言者にそのつもりがなくても、受け手は違う。

特に上席者からの言葉は違う。

発言した本人は「あくまでも任意のお願いだった」と思っていても、現場の人間は「やらなければならない」と受け取ることがある。むしろ組織の中では、そのように受け取られる可能性の方が高い。

これが組織の力学だ。

平常時であれば何気ない一言で済むことも、緊急事態では人命に直結する。

だからこそ、災害時の指示や依頼には最大限の慎重さが求められる。

「無理ならやらなくていい」 「安全確認ができるまで立ち入らない」 「現金よりも人命を優先する」

こうしたメッセージが、曖昧さなく伝わっていなければならない。

今回の事故は、改めて上席者の責任の重さを考えさせる出来事だった。

もちろん、上席者は万能な存在ではない。組織上の役職が上というだけであり、絶対的な権限者でもなければ絶対的な正解を持つ存在でもない。

しかし、その立場にいる以上、発した言葉には大きな影響力が生まれる。

本人が軽く言ったつもりでも、部下にとっては業務命令になる。

本人が選択肢を示したつもりでも、部下にとっては「やるしかない」になる。

今回の事象は、その現実を痛烈に物語っている。

危機対応において優先されるべきものは、売上でも資産でもない。人命である。

そしてリーダーに求められるのは、「何を指示したか」だけではなく、「相手がどう受け取るか」を想像する力だ。

組織の上位者であることは特権ではない。

人の命に影響を与える責任を背負うということなのである。

相手に伝わる表現とは何か――AI時代だからこそ問われる「伝える力」

「伝える」とは、相手の暮らしに染みていくこと

相手に伝わる表現ができてこそ本物なのだと、つくづく感じる。

仕事でも講演でも研修でも、つい「良いネタができた」「良い話ができた」というところで満足しそうになる。

しかし、本当に大切なのはそこではない

ネタをつくって終わりではない、、、

話をして終わりでもない、、、

伝えた内容が、その人の実践につながるのか。そして実感となって、その人の日常や暮らしの中に染みていくのか。

そこまで到達して初めて「伝わった」と言えるのだと思う。

今はAIの進化によって、ネタづくりは驚くほど容易になった。

文章も作れる、、、

スライドも作れる、、、

イラストや画像素材も作れる、、、

少し前なら何時間もかかっていた準備が、わずかな時間で形になる時代になった。

経営コンサルタントという仕事をしていても、その変化の大きさを日々感じる。

便利になったことは間違いない。

伝わりやすくなったことも間違いない。

しかし、それで伝わるようになったわけではない。

ここを勘違いしてはいけないと思う。

AIは伝わりやすくするための道具にはなれる。

だが、伝わることそのものを保証してくれるわけではない。

どれだけ見栄えの良いスライドがあっても、どれだけ分かりやすい資料があっても、それだけで人は動かない。

人が行動を変える時には、必ず何かしらの感情が動いている。

「やってみよう」

「自分にもできそうだ」

「なるほど、そういうことか」

そんな小さな心の変化が起きて初めて、実践につながる。

だから最後は、人なのだと思う。

想いを持った人が、その想いをあたたかく届けられるかどうか。

そこに尽きる。

私の身近にも、そんなスピーカーがいる。

決して声を張り上げるわけではない。

相手を論破することもない。

自分の正しさを押し付けることもない。

話し方に角がない。

相手の理解度や反応を見ながら、あくまで相手のペースで進めていく、、、

だから伝わる。

聞いている人が置いていかれない。

「教えられた」というより、「気付いた」という感覚になる。

気付いたことは、自分ごとになる。

自分ごとになったことは、行動に変わる。

そして行動は、やがて習慣になる。

伝えるとは、そういうことなのだろう。

相手の頭に情報を届けることではない。

相手の暮らしの中に、その考え方が自然と根付いていくことなのだ。

AIがどれだけ進化しても、この部分だけは置き換えられないのではないかと思う。

だからこそ、私自身も問い続けたい。

伝わる資料を作れているか、、、

伝わる話をできているか、、、

ではなく、

相手の実践につながっているか。

相手の人生や仕事に、少しでも良い変化を生み出せているか。

その視点を忘れずにいたい。

「伝える」とは、話すことではない。

相手の暮らしに染みていくことなのだ。

勝てばいいではなく、、、どう勝つかの拘りこそが次へ繋がる

横綱の重圧と勝ち方へのこだわり

大相撲名古屋場所を見ていると、新横綱・大の里関がなかなか波に乗り切れていない印象を受ける。

もちろん、最初に言っておきたいのは、大の里関の地力そのものを疑っているわけではないということだ。短期間で大関、そして横綱まで駆け上がった実績は本物であり、その力は誰もが認めるところだろう。

ただ、横綱になった瞬間から景色は大きく変わる。

スポーツの世界は残酷なほど結果が求められる。一日一日勝敗がつき、その評価が積み上がっていく。昨日まで挑戦者だった者が、今日は追われる立場になる。

横綱になると、対戦相手はみな「横綱を倒したい」という気持ちで土俵に上がってくる。優勝を目指す力士もいれば、三賞を狙う力士もいる。中には「一生に一度でいいから横綱を倒したい」という思いでぶつかってくる力士もいる。

いわば全員がワンチャンスを狙っている。

その挑戦を毎日受けて立たなければならないのが横綱の難しさだと思う。

だからこそ、大の里関にはまず自分の力を信じてほしいと思う。

そして今後考えるべきは「勝つこと」だけではなく、「どう勝つか」ではないだろうか。

もちろん勝負の世界だから勝つことは大事だ。しかし、私はどんな形でも勝てばいいとは思わない。

とにかく勝つことだけを目的にするのではなく、どんな相撲で勝つのかという手段にもこだわってほしい。

その意味で私が思い出すのは貴乃花だ。

貴乃花は寄り切りへの強いこだわりを持っていた。相手を正面から受け止め、自分から前に出て、最後は寄り切る。

圧倒的な力で相手を土俵の外へ運ぶ。

その姿勢には横綱としての哲学があったように感じる。

一方ではたき込みや引き技で勝てば、勝敗としては白星になるかもしれない。しかし相手からすれば、

「もう少しで勝てた」

「次はやれるかもしれない」

という気持ちが残る。

それは挑戦者に次への希望を与えてしまう。

しかし真正面から受け止められ、前に出られ、最後は寄り切られてしまったらどうだろう。

相手は

「やっぱり無理か……」

と思うはずだ。

その感覚を相手に植え付けることこそ、真の横綱相撲なのではないかと思う。

勝負は土俵に上がる前から始まっている。

「あの横綱には何をやっても勝てない」

そう思わせる状況を作ることができれば、相手は立ち合いの時点で半歩後ろに下がっている。

大の里関には、その圧倒的な力がある。

だからこそ小手先の勝利ではなく、自分の相撲を貫いてほしい。多少遠回りに見えたとしても、前に出て寄り切る。その積み重ねが横綱としての絶対的な存在感を作っていくのだと思う。

地力は間違いなくある。

あとは自信を持ち、自分の型で相手を凌駕すること。

そんな横綱・大の里の姿を期待している。