新しいことへの挑戦が怖い理由|それでも一歩踏み出した先に見える景色

新しさの扉の前で

人は誰しも、新しいことに挑戦しようとするとき、胸が高鳴る。

「あれをやってみたい」 「こんな世界を見てみたい」 「今とは違う自分になれるかもしれない」

そんなわくわくした気持ちが湧き上がる一方で、必ずと言っていいほど別の感情も顔を出す。

それが「恐れ」だ。

失敗したらどうしよう。 笑われたらどうしよう。 お金が無駄になったらどうしよう。 思い描いた結果にならなかったらどうしよう。

新しさの扉を開けようとするたびに、恐れはもっともらしい理由を並べて私たちを引き留める。

今のまま留まっていれば、今すぐには何も起こらない、、、

挑戦しなければ失敗もない。 行動しなければ傷つくこともない。 リスクを取らなければ不安になる必要もない。

将来的には機会を逃すかもしれないし、後悔という禍根を残すかもしれない。それでも「今この瞬間」に限れば、安全な場所にいることができる。

だから足は自然と止まる。

しかし、振り返ってみると、人生の転機はいつも行動した先にあった。

やってみたから出会えた人。 飛び込んだから見えた景色。 一歩踏み出したから得られた経験。

その多くは、始める前には想像もできなかったものばかりだ。

「案ずるより産むが易し」とはよく言ったものである。

頭の中で不安を膨らませているときは、とてつもなく大きな壁に見える。ところが実際にやってみると、思ったほど大変ではなかったという経験は誰しも持っているのではないだろうか。

もちろん、すべてがうまくいくわけではない。

しかし行動すれば結果が得られる。 結果が得られれば学びが生まれる。 学びが生まれれば次の一歩につながる。

一方で、行動しなければ何も変わらない。

恐れがあるのは、それだけ自分にとって価値のある挑戦だからだ。

だから恐れを消そうとしなくてもよい。

わくわくと恐れの両方を抱えたまま、一歩だけ前に進めばいい。

新しさの扉の向こうに何があるかは、開けてみなければわからない。

わからないからこそ面白い。

今日もまた、わくわくと少しの恐れを連れて、新しい扉を開けてみたい。

当たり前が止まる日 〜右手の痛みが教えてくれた日常のありがたさ〜

当たり前が止まる日、、、

原因ははっきりしない。

今週に入ってから、右手の甲の腫れが引かず、突然痛みを抱えることになった。利き手の右手だけに、想像以上に不便だ。

蛇口をひね、ペットボトルのキャップを開ける、車を運転する、箸を持って食事をする、パソコンのマウスを動かす、

普段なら意識もしないような動作の一つひとつが、痛みとともに立ちはだかる。

先週まで当たり前にできていたことが、いきなりできなくなる。たったそれだけで、日常の風景は大きく変わる。

私たちは、ともすると今の生活に不満を並べる。

もっと刺激が欲しい。

もっとお金が欲しい。

もっと評価されたい。

もっと面白い毎日を送りたい。

なんでもない日常を、もっとエキセントリックなものにしたいと思う。そして、当たり前の今に対して不満を述べる。

しかし、今回の右手の痛みは、そんな自分に静かに問いかけてきた。

蛇口をひねれること。 車を運転できること。 痛みなく食事ができること。 朝起きて普通に仕事ができること。

それらは決して退屈な日常ではない。むしろ、とても恵まれた毎日だったのだと。

健康は、失って初めてその価値に気づくと言われる。まさにその通りだと思う。

当たり前は、当たり前ではない。

それは誰もが知っている言葉だが、本当に実感できるのは、何かを失ったときなのかもしれない。

もちろん、右手の腫れの原因はまだわからない。早く治ってほしいという気持ちはある。しかし一方で、この不便さのおかげで気づかされたこともある。

今日、痛みなく手を動かせる人は、それだけで十分に幸せなのだ。

いつもと同じ朝を迎えられること。 いつもと同じ仕事ができること。 いつもと同じ食事を楽しめること。

そんな何気ない一日こそが、本当は奇跡に近い価値を持っている。

右手の腫れが教えてくれたのは、健康のありがたさだけではない。

「何も起こらない普通の日」が、実は人生で最も贅沢な時間なのだということだった。

先週までの当たり前に、今は心から感謝したいと思う。