災害は他人事ではない まずは想いを馳せることから始めよう

想いを馳せることから始まる

災害は他人事ではない、、、そんな言葉を耳にする

しかし実際には、自分の生活が平穏であればあるほど、被災地の出来事は遠く感じてしまうものだ。

テレビやスマートフォンの画面越しに映る被害の様子。

避難所での生活。

復旧作業のニュース。

それらを見ながらも、どこか現実感を持てないことがある。

それは決して悪いことではないと思う。

人は自分の生活を守りながら生きているのだから。

ただ、そのまま目を背けてしまうのは少しもったいない。

地震も、豪雨も、台風も、山火事も。

いま世界のあちこちで起きている災害は、地球から私たちへの壮大な問いかけなのかもしれない。

「本当にこのままでいいのか」

「自然とどう向き合うのか」

「人と人はどう支え合うのか」

そんな問いを投げかけているように感じる。

だからまずは目を背けないこと。

そこからしか始まらない。

もちろん、誰もが被災地へ駆けつけられるわけではない。

ボランティアに参加することも、寄付をすることも、それぞれ事情がある。

無理をする必要はない。

まずは想いを持つこと。

そして想いを馳せること。

ニュースを見て、

「大変だな」

と思うだけでもいい。

被災された方々の気持ちを少しだけ想像してみる。

避難生活とはどんなものだろう。

家族と離れる不安はどれほどだろう。

そんなふうに考えてみる。

それだけでも十分な一歩だと思う。

人は関心を持つことで少しずつ変わる。

昨日まで遠かった出来事が、少しだけ近く感じられるようになる。

そうやって自分なりの感じ方ができれば、まずはそれでいい。

正解などない。

大切なのは、心が動くことだ。

そして不思議なことに、心が温まってくると行動も変わり始める。

募金をしてみようと思うかもしれない。

防災用品を見直そうと思うかもしれない。

地域の避難訓練に参加してみようと思うかもしれない。

あるいは被災地の商品を購入して応援しようと思うかもしれない。

行動の形は人それぞれだ。

でも、その最初の一歩はいつも心から始まる。

心が動き、

心が温まり、

そして体が動く。

災害を自分事として捉えるというのは、そういうことなのだと思う。

大きなことをしなくてもいい。

まずは関心を持つこと。

想いを馳せること。

その小さな心の動きが、いつか誰かを支える力になるのかもしれない。

熊本地震で感じた胸の痛み。遠くてもできる支援とボランティアの第一歩

「遠いから」を超えて繋がる気持ち

今回の熊本地震、、、

今までも東日本大震災や熊本地震、能登半島地震など、大規模な災害が起こるたびに心を痛めてきた。もちろん他人事ではないと感じていたし、被災された方々のことを想い、自分なりにできる範囲で寄付をしたこともある。

それでも今回、なぜか今まで以上に胸が苦しくなった。

テレビやネットで伝えられる被災地の様子を見ながら、「自分にできることは何だろう」と真剣に考えている自分がいた。

恥ずかしながら、これまでボランティア活動をした経験はない。

被災地へ行って汗を流す人たちを敬意を表しながらも、「遠いから」という言葉をどこか言い訳にしてきた気がする。

今回の熊本も、やはり遠い。

仕事や家庭の都合を考えると、すぐに現地へ駆けつけることは簡単ではない。

しかし、そこでふと思った。

本当にできることはないのだろうか、、、

熊本まで行けないなら、地元でできるボランティアはないのだろうか。

地域の清掃活動でも、高齢者支援でも、子ども食堂の手伝いでもいい。まずは身近な場所で誰かの役に立つ行動を始めることが、結果として社会との繋がりを生み、その延長線上に被災地との繋がりも生まれていくのではないか。

そんなことを考えている。

遠く離れた熊本のために何かをしたい。

その気持ちを一過性の感情で終わらせず、自分自身の行動に変えていきたい。

今日は長岡花火の日だった。

テレビ越しではあったが、その美しい花火を眺めながら、改めて長岡空襲や中越地震からの慰霊や復興の歴史に思いを馳せた。

大きな苦しみや悲しみを経験した地域だからこそ生まれたメッセージがある。

「一人にはしない」

「一人ではない」

花火の光だけではない。その言葉の力にも大きな刺激をもらった。

災害はいつ、どこで起きるかわからない。

今日支援を必要としている人は熊本かもしれないが、明日は自分の住む地域かもしれないし、自分自身かもしれない。

だからこそ、人と人との繋がりを大切にしたい。

遠いからできないではなく、今いる場所でできることから始める。

そんな小さな一歩が、巡り巡って誰かを支え、自分も支えられる社会に繋がっていくのだと思う。

まずは身近なところから。

そして、その想いを熊本へと繋げていきたい。

熊本地震で考える支援のカタチ-想いを寄せることも支援のひとつ

想いを寄せることも支援のひとつ

熊本地震の被害状況が少しずつ明らかになっていく。

不足する物資。続く厳しい暑さ。報道に触れるたびに、被災された方々が置かれている状況の厳しさを感じる。

まずは、被災された皆様に心からお見舞いを申し上げたい。そして、現地で対応にあたる行政職員、消防や警察、自衛隊、医療関係者、ボランティアなど、すべての関係者の皆様に敬意を表したいと思う。

災害が起きると、「自分には何ができるだろう」と考える。

もちろん寄付やボランティアは大切な支援だ。しかし、それだけが支援ではないとも思っている。

ニュースを見ること。 新聞を読むこと。 被災地の状況に関心を持つこと。

そんなことも、ひとつの寄り添い方ではないだろうか。

遠く離れた場所にいる私たちは、現地に駆けつけることができない場合も多い。だからこそ、被災地で何が起きているのかを知り、想いを寄せ続けることに意味があると思う。

何もしないのではなく、忘れないこと。

それもまた支援のひとつだ。

私がいる群馬県前橋市は、熊本からおよそ1,000km離れている。

こちらでは普段と変わらない日常が流れている。仕事をし、人と会い、食事をし、日々を過ごしている。

そのことに感謝しなければならない。

一方で、災害が起きるたびに感じるのは、必要以上の自粛ムードで社会全体がおかしくなってしまうことへの違和感だ。

被災地への配慮はもちろん必要だ。

しかし、遠く離れた地域まで元気を失い、経済活動まで止めてしまうことが被災地のためになるわけではない。

派手な投稿や不謹慎と思われる発信には気を付けながらも、こちらはこちらで日常を送り、仕事をし、地域を元気にしていく。

それもまた被災地を支える力になると思う。

被災地は被災地で頑張っている。

だから私たちは私たちの場所でできることを続ける。

そして、ときどきニュースや新聞に目を向ける。

忘れないこと。 関心を持ち続けること。

大きなことはできなくても、せめて想いだけは寄せていたい。

それが今の私にできる、ひとつの支援なのだと思う。

楽しかったから始まる環境教育 子どもたちに伝わる授業の本質

楽しかった、、、そこからしか始まらない

環境教育事業に関わっていると、いつも感じることがある。

人が動くきっかけは、正しさではなく楽しさなのではないかということだ。

ある就業先で展開している環境教育の現場でも、それをつくづく実感している。

環境問題や資源循環、そしてリサイクル。これらは決して新しいテーマではない。むしろ今では、誰もが「やった方がいい」と理解しているし、実践したいと思う人も増えている。リサイクルをすること自体に抵抗感を持つ人は少ない。

しかし、その一方で大きな壁もある。

分かりにくさと難しさだ。

何をどこまで分別すればいいのか。本当にリサイクルされるのか。汚れていても大丈夫なのか。そんな疑問や不安が行動を止めてしまう。

私はこれまで何度か書いてきたが、リサイクルは決して単純ではない。だからこそ、実際を知っているリサイクラーの役割は大きいと思う。

「ここまでは大丈夫」 「これは難しい」 「そこまで神経質にならなくてもいい」

そんな許容の線を分かりやすく伝えることができれば、難しさはずいぶん軽くなる。

特に子どもたちに対してはそうだ。

子どもは理屈だけでは動かない。

もちろん分かりやすさは大切だ。しかし、それ以上に大切なのは最初の体験だと思っている。

授業が楽しかった、、、

まずはそれでいい。

今日の授業は楽しかった、、、

その感覚こそが、次に話を聞こうという気持ちにつながり、やってみようという行動につながっていく。

逆に、どんなに大切なことを伝えようとしても、受け入れる準備ができていなければ届かない。

伝えたいことを伝えるためには、まず受け入れ態勢をつくってもらうこと。

その入口が「楽しかった」なのだと思う。

今日も子どもたちからたくさんの反応をもらった。

環境問題を理解してもらうことも大切だが、その前に「また来てほしい」「また聞きたい」と思ってもらうことの価値を改めて感じた。

楽しかった。

そこからしか始まらない。

そして、その楽しさの先に、未来の行動変容があるのだと思う。

当たり前の暮らしを支えるソーシャルワーカーを見て考えた、自分にできる社会への役割

当たり前を支える人たちの背中を見ながら

最近、ふと思う。

自分は本当に良いバランスで仕事ができているな、と。

経営コンサルタントとして企業の課題に向き合い、地域の活動にも関わり、さまざまな人との出会いの中で新しい価値を生み出そうとしている。忙しくはあるが、決して苦しいわけではない。むしろ、自分のココロが赴くままに動き、その先で仕事になり、人との縁につながっている。

そんな毎日を過ごしていると、ついそれが当たり前のような気がしてしまう。

しかし、本当にそうなのだろうか。

先日、ソーシャルワーカーの方々と接する機会があった。

高齢者や障がいのある方、生活に困難を抱える方々に寄り添い、その人らしい暮らしを支える。私たちが何気なく送っている毎日の生活。その「当たり前」を守り続けるために、見えないところで奔走している人たちがいる。

誰かの困りごとに耳を傾けること。 制度と現実の隙間を埋めること。 時には家族よりも近い存在として寄り添うこと。

決して派手な仕事ではないかもだが、、、

けれど、その仕事がなければ社会は成り立たない。

当たり前の生活は、誰かの献身によって支えられている。

そんな姿を見ていると、少し考え込んでしまう。

自分は今のまま、自分の人生を謳歌しているだけでいいのだろうか。

もちろん、自分自身が幸せであることは大切だ。好きな仕事をし、好きな人と関わり、自分らしく生きることを否定するつもりはない。

だが一方で、「自分だからこそできること」があるはずだという思いも強くなる。

経営コンサルタントとして培ってきた経験。 企業と行政、地域をつなぐネットワーク。 人と人を結び付ける力。

それらは、自分のためだけに与えられたものではない気がする。

社会には、それぞれの役割がある。

ソーシャルワーカーにはソーシャルワーカーの役割があり、経営者には経営者の役割があり、地域活動をする人にはその役割がある。

そして私にも、私にしか果たせない役割期待があるはずだ。

それは大きなことではないかもしれない。

誰かの挑戦を後押しすることかもしれない。 地域の資源をつなぎ合わせることかもしれない。 埋もれている価値を見つけて伝えることかもしれない。

けれど、それが自分だからこそできることであるならば、そこに意味がある。

人生は、自分だけのものではない。

多くの人に支えられながら生きている以上、その恩返しを社会に返していく責任もある。

当たり前を支える人たちの背中を見ながら、改めてそう感じた。

ココロが赴くままに生きる。

それはこれからも変わらない。

ただ、その先にあるのは「自分のための充実」だけではなく、「誰かのために何ができるか」を問い続けることなのだと思う。

自分だからこそできることは何か。

その問いへの答えを探し続けることこそが、今の私に与えられた役割なのかもしれない。