間に合うから、大丈夫

何かを始めなければ、、、

もっと頑張らなければ、、、

もっと前へ進まなければ、、、

そんな気持ちになることがある。

でも、そんなに詰め込まなくてもいい。

誰しもが尊く、意味のある存在だからだ。

何かを成し遂げたから価値があるのではない。

成果を出したから認められるのでもない。

生きている、、、

そこにいる、、、

ただそれだけで十分に意味がある。

だから焦る必要はない。

まずはゆっくり休んでいい、、、

今日休んでもいい、、、

明日休んでもいい、、、

その次の日も、少し立ち止まっていてもいい。

疲れているのに無理をして進むより、自分を整えることの方が大切な時もある。

そして、元気が出てきたら少しだけ始めればいい。

ほんの少しでいい。

昨日まで何もしていなくても、一歩だけ進めばそれで十分だ。

私は人生は長いと思っている。

若くても、年齢を重ねていても、その人の人生にはまだ続きがある。

だから慌てなくていい。

周りと比べなくていい。

ゆっくり休んで、ゆっくり考えて、ゆっくり歩けばいい。

人生は短距離走ではなく長い旅のようなものだ。

一日や二日休んだからといって、目的地にたどり着けなくなるわけではない。

むしろ、休みながら進む方が遠くまで行けることもある。

今日休んで、、、

明日休んで、、、

明後日、少しだけ進む、、、

それでも間に合う。

だから安心してほしい。

焦らず、ゆっくり、ゆっくり。

そして動きたくなった時に、また少し前へ進めばいい。

きっと、それで十分なのだろう

人付き合いは3種類で考える。「特に付き合わなくて」という選択

「特に付き合わなくていい人」

年齢を重ねるほど、人付き合いについて考えることが増える。

世の中には大きく分けて三種類の人がいると思っていて、、、

ひとつは、これからも積極的に付き合いたい人。

もうひとつは、どうしても付き合いたくない人。

そして最後が、特に付き合わなくてもいい人だ。

もちろん、この分類は固定ではない。昨日まで付き合いたかった人が今日もそうとは限らないし、逆のこともある。人も環境も変化するのだから、その時々で移ろっていく。

だから「この人とは一生の付き合いだ」とか、「もう二度と関わらない」とか、そんな大げさな決断をいつもする必要はないと思う。

そんな時に便利なのが、「特に付き合わなくていい人」という選択肢である。

人は嫌いな相手ほど意識してしまう。

毛嫌いすると、その人の言動が気になる。何を言った、何をした、なぜあんなことをするのか。こちらの時間も感情も持っていかれる。

しかし、「特にいいや」となれば違う。

そこに強い感情はない。

無理に距離を縮めることもないし、わざわざ遠ざけることもしない。

ただ自然と接点が減っていくだけだ。

実はこれが一番楽なのかもしれない。

何事も極端になると、こちらが奪われるものが多い。

好きすぎても振り回されるし、嫌いすぎても振り回される。

どちらも平穏とは言い難い。

だったら、「特に付き合わなくていい」で十分だ。

期限を決める必要もない。

一年後にまた付き合いたくなるかもしれないし、二度と接点がなくても構わない。

無期限に「特に」でいいのである。

中には、「昔あれだけ世話になったのに」と言う人もいるだろう。

確かにそんな相手はいる。

助けてもらったこともある。

支えてもらったこともある。

感謝すべき出来事がいくつもある。

それでも人は変わる。

相手も変わるし、自分も変わる。

どんなに世話になった経緯があっても、「どんなに」「どんなに」が積み重なったとしても、今の自分にとって「特に付き合わなくていい人」になっているなら、それは決しておかしな判断ではない。

過去への感謝と、これからも付き合うことは、必ずしも同義ではないからだ。

世間一般では、それを薄情と呼ぶかもしれない。

義理を欠いていると言われるかもしれない。

しかし、これから先の人生を考えた時、建前ばかりで人付き合いを続けるには時間があまりにも貴重だ。

限られた時間を誰と過ごすのか。

限られたエネルギーを誰に使うのか。

その選択は若い頃よりずっと重要になってくる。

だから私は、「付き合いたい人」を大切にしながら、「付き合いたくない人」に感情を使わず、「特に付き合わなくていい人」はそのままにしておけばいいと思っている。

白黒つけなくてもいい。

敵を作らなくてもいい。

ただ、自分の人生の中心に置く人を選べばいい。

年齢を重ねた今だからこそ、そんな柔らかな線引きが心地よい。

当たり前の暮らしを支えるソーシャルワーカーを見て考えた、自分にできる社会への役割

当たり前を支える人たちの背中を見ながら

最近、ふと思う。

自分は本当に良いバランスで仕事ができているな、と。

経営コンサルタントとして企業の課題に向き合い、地域の活動にも関わり、さまざまな人との出会いの中で新しい価値を生み出そうとしている。忙しくはあるが、決して苦しいわけではない。むしろ、自分のココロが赴くままに動き、その先で仕事になり、人との縁につながっている。

そんな毎日を過ごしていると、ついそれが当たり前のような気がしてしまう。

しかし、本当にそうなのだろうか。

先日、ソーシャルワーカーの方々と接する機会があった。

高齢者や障がいのある方、生活に困難を抱える方々に寄り添い、その人らしい暮らしを支える。私たちが何気なく送っている毎日の生活。その「当たり前」を守り続けるために、見えないところで奔走している人たちがいる。

誰かの困りごとに耳を傾けること。 制度と現実の隙間を埋めること。 時には家族よりも近い存在として寄り添うこと。

決して派手な仕事ではないかもだが、、、

けれど、その仕事がなければ社会は成り立たない。

当たり前の生活は、誰かの献身によって支えられている。

そんな姿を見ていると、少し考え込んでしまう。

自分は今のまま、自分の人生を謳歌しているだけでいいのだろうか。

もちろん、自分自身が幸せであることは大切だ。好きな仕事をし、好きな人と関わり、自分らしく生きることを否定するつもりはない。

だが一方で、「自分だからこそできること」があるはずだという思いも強くなる。

経営コンサルタントとして培ってきた経験。 企業と行政、地域をつなぐネットワーク。 人と人を結び付ける力。

それらは、自分のためだけに与えられたものではない気がする。

社会には、それぞれの役割がある。

ソーシャルワーカーにはソーシャルワーカーの役割があり、経営者には経営者の役割があり、地域活動をする人にはその役割がある。

そして私にも、私にしか果たせない役割期待があるはずだ。

それは大きなことではないかもしれない。

誰かの挑戦を後押しすることかもしれない。 地域の資源をつなぎ合わせることかもしれない。 埋もれている価値を見つけて伝えることかもしれない。

けれど、それが自分だからこそできることであるならば、そこに意味がある。

人生は、自分だけのものではない。

多くの人に支えられながら生きている以上、その恩返しを社会に返していく責任もある。

当たり前を支える人たちの背中を見ながら、改めてそう感じた。

ココロが赴くままに生きる。

それはこれからも変わらない。

ただ、その先にあるのは「自分のための充実」だけではなく、「誰かのために何ができるか」を問い続けることなのだと思う。

自分だからこそできることは何か。

その問いへの答えを探し続けることこそが、今の私に与えられた役割なのかもしれない。