独立した意味は、幻想を現実に変えること

「自分しか救えない」という幻想が、力になる

ここ数日、疾風のような忙しさが続いている。
なぜ、ここまで動けるのか?
それは「自分しか救えない人がいる」と思っているからだ。
自分が止まったら、即ち止まる――そんな構造に見えてしまう。
だから、やれるのだ。

この「いい意味での勘違い」は、自分を強烈に突き動かす。
事実、他の誰かでもできるのかもしれない。
むしろ「自分しかできない」なんてことは、あり得ないのかもしれない。
でも、いったんはそう思い込む。
その理屈で自分を焚きつける。
そのために自分は存在している。
そのために解き放たれ、独立したのだ。

そう思うと、面白い。
「自分しかできない」という幻想が、行動の燃料になる。
そして、その燃料がある限り、今日も走れる。

もちろん、冷静に考えれば、世界は自分一人で回っているわけじゃない。
誰かが代わりにやれることもある。
でも、そんな現実を直視してしまったら、足が止まる。
だから、あえて幻想を信じる。
「自分がやらなければ誰もやらない」――その思い込みが、前に進む力になる。

独立したとき、私はこう決めた。
「自分の存在理由は、自分でつくる」
その理由が、今ここにある。
疾風のような日々は、しんどいけれど、悪くない。
むしろ、面白い。
今日も始まるな。

well being それではまた!!

高尚な理屈はいらない――まずは欲望に火をつけろ

自分の欲望に直情的になること――それが、もっとも有効な行動への導火線になると思う。
「いい車に乗りたい」「うまい酒を飲みたい」「女性に囲まれたい」
そんな単純で、どす黒い直情は、実はとても強い。

まずはそこに従うことだ。
歩みを始めることが大切だ。
動き出せてから、後付けで高尚な理屈を付け足せばいい。
世の中、そんなに高尚な人ばかりではない。
行動している人、リスクを取っている人が前に進めているのだ。

結果として、その欲望が他者への貢献につながることもある。
そして、その貢献が自分の喜びにもなる。
他者との関わりがあってこそ長続きするが、それはあくまでも自分の行動の先にある。
まずは、自分の欲望に火をつけることだ。

頭で考えすぎるな。
カラダで考えよう。
動き出すことでしか、世界は変わらない。

well being それではまた!!

今までと同じだからいい?――その思い込みを手放す勇気

「今までと同じ」では足りない――群馬の秘湯で考えたこと

群馬で有名な秘湯に宿泊したときのこと。
食事は19時からと時間指定されていた。ところが、その食事中にちょっとした出来事があった。

19時に食事を始めた老夫婦が、食事の途中で宿のマネージャーに穏やかなクレームを入れていた。
「19時から食事を始めたのに、19時45分くらいから周囲で一斉に片づけが始まって、落ち着かなかった、、、」と。
確かに、せっかくの旅先でゆっくり食事を楽しみたいのに、片づけの音や慌ただしさが漂うのは残念だ。

宿側のコメントはこうだった。
「食事時間は一時間以上を想定しています。今日のやり方はいつもと同じです。今までそういうクレームはありませんでした。」
つまり、「今までと同じだから問題ない」というスタンス。謝罪はほとんどなかった。

老夫婦のクレームは一方的に言い募るものではなく、穏やかで冷静だっただけに、この対応は少し寂しく感じた。
「今までと同じことをやっただけ」という言葉が、妙に引っかかった。

その瞬間、私は思った。
中年になっている自分こそ、気をつけなくてはならない。
経験値が邪魔をして、「今までと同じだからいいだろう」と思ってしまうことがある。
でも、それは危うい。
多くの人は、せっかく来た旅でクレームを入れるのも気が引けて、足踏みしていたのかもしれない。
自己防衛は、かっこ悪さになることもある。

最近はクレーマーも多い。だから、まずは防御になるのかもしれない。
でも、認めるところは認めて、次につなげてほしい。
その姿勢が、宿の価値をさらに高めるはずだ。

そして、私自身も学んだ。
自分の主張を通すのに、声を大きくする必要はない。
ゆっくり、穏やかに言っても同じだ。
むしろ、そのほうが相手に刺さる。
老夫婦の姿勢が、それを教えてくれた。

旅先での小さな出来事が、こんなに深い気づきをくれるとは思わなかった。
「今までと同じ」では足りない。
受け入れて変わる勇気を持つことも学んだ

well benig それではまた!!

モヤモヤに意味を与えないという自由

モヤモヤが止まらない――それでも赦すという選択

モヤモヤが止まらない。
こんなことがあった、、、あんなこともあった、、、確かにそうとも言える。
でも、冷静に考えてみると、就業している彼らとはバックグラウンドが違う。私は就業していない。だから、言わば「チラッと瞬間的に関与している」だけだ。その断片的な印象で、全部を判断することはできない。

それでも、心の中で「あーーー」と諦めたり、猜疑心で見てしまうことがある。
なぜだろう?
たぶん、自分の立ち位置が曖昧だからだ。外から見ているのに、内側の空気を感じてしまう。そのギャップが、モヤモヤを生む。

社内を回遊する人たちは、仕事以外にも動きにくい環境を抱えている。私はそれがない。ここに圧倒的な差がある。だからこそ、見えている景色も違う。
彼らは日々の業務に追われ、組織のルールに縛られ、時には人間関係に悩む。私はその中にいない。だから、瞬間的な関与で見えた断片だけで、全体を決めつける必要はない。

でも、人間って不思議だ。
一瞬の違和感で、全部を否定したくなることがある。
「あの態度は何だ?」
「この仕組みはおかしいんじゃないか?」
そんな思考が頭をよぎる。
でも、それは違うんだと思う。そこにこだわらなくていい。
それこそ“赦す”ということなんだと思う。

赦す――それは、相手の過去や状況を理解することじゃない。
むしろ、自分の中のこだわりを手放すことだ。
「こうあるべき」という思い込みを捨てること。
そして、次に進むための選択だ。

モヤモヤは、きっと完全には消えない。
でも、そのモヤモヤを抱えたままでも、赦すことはできる。
赦すことで、自分の視界が広がる。
赦すことで、相手の景色も少しだけ見えるようになる。
そして、何より、自分が楽になる。

だから、今日も思う。
「赦す」という選択を、忘れないようにしよう

well benig それではまた!!

苦難を反転させる力──希望を見つける視点

最近、あるアナウンサーの生き方に心を打たれた。彼は重い病を抱えながらも、最後まで「伝える仕事」を続けた。恐怖や不安に押しつぶされそうな状況で、彼が選んだのは「前を向く」という姿勢だった。

病気を公表したのは、自分の経験が誰かの役に立つならという思いから。ネガティブな現実を隠すのではなく、希望を示すために声を発し続けた。彼にとって仕事は単なる職業ではなく、人の心を動かす力を信じる行為だった。

この姿勢に触れて、ふと思う。自分の日常では「こうなったらいい」「ああなったらいい」と愚痴をこぼすことがある。でも、その愚痴は、誰かとの関わりがあるからこそ生まれるものだ。もしかしたら、自分は誰かの愚痴を受け止め、解放に向かわせる役割を果たしているのかもしれない。それもまた意味のあることだ。

苦難を反転させる力は、状況を変えることではなく、視点を変えることから始まる。希望は、外から与えられるものではなく、自分で見つけるものだ。彼の生き方は、そのことを静かに教えてくれている。

彼の分まで生きる、、、感じた自分が出来ることはこれだと思っている

well being それではまた!!