【初めての靖国神社】英霊への慰霊と平和への想いを深く考えた一日

初めての靖国神社で感じたこと、、、

先日、東京で暮らす娘の顔を見るついでに、初めて靖国神社を訪れた。

靖国神社については、A級戦犯合祀の問題もあり、国内外で様々な意見があることは承知している。賛成する人もいれば反対する人もいる。それでも、戦没者を慰霊する場所であることに変わりはなく、終戦の季節でもあるこの時期に一度足を運んでみたいと思っていた。

実際に境内へ足を踏み入れて、まず感じたのは「空気が違う」ということだった。

もちろんそれは目に見えるものではない。しかし、長い歴史の中で国のために命を落とした多くの人々への祈りや追悼の積み重なりが、その場の空気を形づくっているように感じた。英霊が本当にそこにいるのではないかと思わせるような、独特の静けさと重みがあった。

参拝の後、併設されている遊就館も見学した。

明治維新以降、日本がどのような時代を歩み、どのような戦争を経験して現在に至ったのか。その展示内容は実に重厚だった。歴史認識についても様々な見方があるだろうが、少なくともそこで失われた多くの命と、一人ひとりに人生があったという事実の重さは疑いようがない。

説明文や遺品、遺書などを見ているうちに、月並みな表現ではあるが、尊い犠牲の積み重ねの上に今の平和な社会があることを改めて考えさせられた。

私たちは今日、どこへ行くか、何を学ぶか、どんな仕事をするか、自ら考え、選択しながら生きている。当たり前のように見えるその日常の中で、未来を思い描き、自分の意思で行動できる。

しかし戦時下では、多くの人々にその選択肢がなかった。

望んで戦地へ向かった人ばかりではない。時代の流れの中で、自らの意思とは無関係に戦禍へ巻き込まれていった人も数多くいたはずだ。

展示を見ながら、彼ら彼女らが抱えていたであろう不安や恐怖、そして果たせなかった夢や未来に思いを巡らせると、正直なところ胸が詰まり、言葉が出なかった。

歴史や政治について語ることは難しい。立場によって見方も変わる。

しかし少なくとも、二度と同じ悲劇を繰り返してはならないこと。そして平穏な日常を当たり前と思わず感謝すること。その大切さだけは誰もが共有できるのではないだろうか。

娘の顔を見るために出かけた東京だったが、思いがけず自分自身と向き合う時間にもなった。

平和とは、ただ与えられるものではない。

過去を知り、先人たちに思いを馳せ、その上で未来を考え続けることで守られていくものなのだと、靖国神社で静かに感じた一日だった。

夏のだるさは要注意 「行けるんじゃないか」が危ない理由

「行けるんじゃないか」が危ない

仕事から戻った夕方のこと。

「さて、このままゴルフの練習に行こうか」

そう思いながら冷蔵庫を開け、飲み物を手に取った。

ところが、そこでふと気が付いた。

なんだか体がだるい。

特別に暑い場所で作業をしていたわけではない。炎天下を歩き回ったわけでもない。

それでも妙に力が入らない。

しばらく考えて、その原因はおそらく日中の暑さにあるのだろうと思った。

最近は屋内にいても油断できない。

空調が効いているつもりでも設定温度が高かったり、建物全体の冷房が弱かったりすると、気づかないうちに体は熱をため込み、水分も失っていく。

しかも仕事に集中していると、水を飲むタイミングさえ後回しになる。

問題なのは、そのダメージがすぐに現れないことだ。

炎天下で作業をしていれば、

「今日は暑かったから疲れたな」

と原因がはっきりしている。

だから自然と休もうという気持ちにもなる。

ところが、室内で仕事をしていただけだと、

「少し休めば大丈夫かな」

「ゴルフの練習くらいなら行けるんじゃないか」

そんなふうに考えてしまう。

今回の私もまさにそうだった。

しかし冷静に考えると、その「行けるんじゃないか」が危ない。

体は正直だ。

だるさという形でサインを出しているのに、頭だけが「予定通りに動ける」と判断している。

そこで無理をすると、後になってさらに大きな疲労として返ってくる。

結局、この日はゴルフの練習を見送ることにした。

若い頃なら気合いで行っていたかもしれない。

しかし最近は、休むことも大事な判断だと思うようになった。

頑張ることよりも、自分の状態を正しく把握することの方が難しい。

特に夏はそうだ。

熱中症というと炎天下のイメージが強いが、じわじわ蓄積する水分不足や暑さによる疲労も見逃せない。

はっきりとした不調ではないからこそ、かえって厄介なのだ。

この時期は「行けるかどうか」ではなく、「今日は休んだ方がいいサインが出ていないか」を意識したい。

お盆休みも近い。

せっかくの休みを元気に楽しむためにも、無理をするより、まずはしっかり休む。

そんな選択も悪くないと思う。

空調完備・無料・本が豊富!図書館分室でお盆休みの読書計画を立てる

本屋になくて、図書館にあった

先日、劇場で観た『鬼平犯科帳』が思いのほか面白く、原作も読んでみたくなった。

映画やドラマを観ると、「原作はどう描かれているのだろう」と気になることがある。今回もそんな流れで文庫本を探しに近くの本屋へ向かった。

ところが、ない。

別の棚を探してもない。

時代小説コーナーを見渡してもない。

さすが池波正太郎。根強い人気なのだろうか。それとも映画効果なのか。何冊かは並んでいるものの、読みたい巻は見事に売り切れていた。

少々がっかりしながら帰ろうとしたとき、ふと思い出した。

そういえば、すぐ近くの公民館に市の図書館の分室があったな、と。

正直なところ、これまであまり利用したことがなかった。存在は知っていたが、「本を借りるなら大きな図書館」という先入観もあり、立ち寄る機会がなかったのだ。

せっかくなので覗いてみることにした。

すると、

「あれ……あるじゃん。」

探していた『鬼平犯科帳』が普通に並んでいる。

思わず心の中で突っ込んでしまった。

本屋で売り切れていた本が、こんな身近な場所にあっさり置いてあるとは。

さらに驚いたのは施設の快適さだ。

外は真夏の暑さだというのに空調はしっかり効いている。館内は静かで落ち着いていて、本棚には思った以上に多くの本が並んでいる。

目当ての本だけ借りて帰るつもりが、経営本を手に取り、歴史本を眺め、旅行記をめくり、気づけばあちこちの棚を徘徊していた。

こういう「乱読」が実に楽しい。

ネットではどうしても興味のある情報ばかりが表示される。しかし本棚の前では、自分が知らなかった世界が次々と目に飛び込んでくる。

思いがけない出会いがあるのだ。

考えてみれば、図書館というのは実にコストパフォーマンスが高い。

涼しい。

静か。

本がたくさんある。

しかも無料。

改めて考えると、かなり贅沢な空間ではないだろうか。

新しいサービスやビジネスを考える仕事をしていると、つい遠くの価値ばかり探しがちだ。しかし今回のように、身近にありながら見過ごしていた資源が意外と多いのかもしれない。

本屋で見つからなかった『鬼平犯科帳』のおかげで、そんなことを考えた。

さて、お盆休みが始まる。

せっかく見つけたこの穴場スポットを活用しない手はない。

鬼平をはじめ、気になる本をあれこれ借りて、今年のお盆は「借り倒し週間」にしようと思う。

積読ならぬ、積借。

それもまた、夏休みの楽しみ方の一つだ。

一人でも、みんなでも。選択肢が増えると人生は軽やかになる

一人でも、みんなでも

個人事業主として独立し、自分で仕事を組み立てる生活も気がつけば5年が経った。

会社員時代には当たり前だった会議や組織のルール、決められたスケジュールから離れ、自分で考え、自分で決め、自分で責任を持つ毎日だ。大変なこともあるが、この自由さは何ものにも代えがたい。

そんな今の生活スタイルにぴったり合っているのが、趣味のゴルフの「一人予約」だ。

ゴルフは基本的に4人でプレーするスポーツである。仲間とワイワイ回るのももちろん楽しい。しかし、4人のスケジュールを合わせるのは意外と大変だ。

その点、一人予約は実に合理的だ。

自分の空いている日を見つけて予約するだけ。誰かの予定を気にする必要もないし、急な仕事が入れば調整もできる。個人事業主のライフスタイルにはとても相性がいい。

「知らない人と回るのはどうですか?」

と聞かれることがある。

最初は少し抵抗があったが、、、

でも、よく考えてみるとコンペでは初対面の人と一緒に回ることも珍しくない。それと何が違うのだろう、、、

実際にやってみると、ゴルフという共通言語があるので大きな問題はない。適度な距離感で会話を楽しみながらプレーできるし、終わればそれぞれの日常に戻っていく。

この気軽さが心地よい。

最近思うのは、「一人でいること」と「孤独であること」は違うということだ。

一人でも十分楽しめる、、、

無理につるまなくてもいい、、、

誰かに合わせなくてもいい、、、

縛られない分、むしろ自由で豊かな時間になることもある。

もちろん友人とのゴルフは今でも楽しい。気の置けない仲間と笑いながら過ごす時間は特別だ。

ただ、それだけが正解ではない。

今の自分の気持ちに素直に従い、一緒にできるときは友人を誘う。予定が合わなければ一人予約で楽しむ。

そんな選択肢があることが大切なのだと思う。

これは決して人付き合いを避けているわけでも、刹那的になっているわけでもない。

むしろ逆だ。

歳を重ねるにつれて、「こうしなければならない」が減り、「こうしてもいい」が増えてきた。

選択肢が増えたことで、生き方そのものが少し軽やかになった気がする。

一人でいる自由もある。 仲間と過ごす楽しさもある。

どちらかを選ぶのではなく、その時の自分に合った選択をすればいい。

そんな肩の力の抜けた生き方が、今の自分にはちょうどいい。

自由で、しなやかで、そして自然体のまま。

熊本地震で感じた胸の痛み。遠くてもできる支援とボランティアの第一歩

「遠いから」を超えて繋がる気持ち

今回の熊本地震、、、

今までも東日本大震災や熊本地震、能登半島地震など、大規模な災害が起こるたびに心を痛めてきた。もちろん他人事ではないと感じていたし、被災された方々のことを想い、自分なりにできる範囲で寄付をしたこともある。

それでも今回、なぜか今まで以上に胸が苦しくなった。

テレビやネットで伝えられる被災地の様子を見ながら、「自分にできることは何だろう」と真剣に考えている自分がいた。

恥ずかしながら、これまでボランティア活動をした経験はない。

被災地へ行って汗を流す人たちを敬意を表しながらも、「遠いから」という言葉をどこか言い訳にしてきた気がする。

今回の熊本も、やはり遠い。

仕事や家庭の都合を考えると、すぐに現地へ駆けつけることは簡単ではない。

しかし、そこでふと思った。

本当にできることはないのだろうか、、、

熊本まで行けないなら、地元でできるボランティアはないのだろうか。

地域の清掃活動でも、高齢者支援でも、子ども食堂の手伝いでもいい。まずは身近な場所で誰かの役に立つ行動を始めることが、結果として社会との繋がりを生み、その延長線上に被災地との繋がりも生まれていくのではないか。

そんなことを考えている。

遠く離れた熊本のために何かをしたい。

その気持ちを一過性の感情で終わらせず、自分自身の行動に変えていきたい。

今日は長岡花火の日だった。

テレビ越しではあったが、その美しい花火を眺めながら、改めて長岡空襲や中越地震からの慰霊や復興の歴史に思いを馳せた。

大きな苦しみや悲しみを経験した地域だからこそ生まれたメッセージがある。

「一人にはしない」

「一人ではない」

花火の光だけではない。その言葉の力にも大きな刺激をもらった。

災害はいつ、どこで起きるかわからない。

今日支援を必要としている人は熊本かもしれないが、明日は自分の住む地域かもしれないし、自分自身かもしれない。

だからこそ、人と人との繋がりを大切にしたい。

遠いからできないではなく、今いる場所でできることから始める。

そんな小さな一歩が、巡り巡って誰かを支え、自分も支えられる社会に繋がっていくのだと思う。

まずは身近なところから。

そして、その想いを熊本へと繋げていきたい。