SNSは便利だ。
情報は早く、拡散力もある。
だが同時に、私はこの仕組みそのものに、強い違和感を覚えている。SNSは、本来「意見を並べる場」だったはずだ。
ところがいつの間にか、「意見の数」や「同調の可視化」が価値を持つ場に変わってしまった。
人は、内容よりも“賛同の多さ”を見る。
正しいかどうかよりも、“どちらが勢いを持っているか”を感じ取る。
結果として、そこに生まれるのは議論ではなく、空気だ。
特に怖いのは、同じ属性の人間が同じタイミングで同じ方向を向いたときだ。
経済人、専門家、著名人。
肩書きが並ぶほど、「これは正しいのだろう」という無言の圧が生まれる。
SNSのアルゴリズムは、それをさらに加速させる。
似た考えは集められ、反対意見は見えにくくなる。
結果、世界は単純化され、「賛成か反対か」「正しいか間違いか」しか残らなくなる。
しかし、現実はそんなに白黒ではない。
SNSでは、「迷い」や「留保」は評価されない。
「少し引っかかる」「どちらとも言えない」という態度は、
発信しづらく、共有されにくい。
だからこそ、発信はどんどん強くなる。
断定的になり、きれいな言葉が選ばれ、
「私は清く、正しい」という姿勢が前面に出る。
だが、私は思う。
清さや正しさを、ここまで強調しなければならない理由は何なのか、と。
本当に人を動かすのは、完璧な姿ではない。
迷いながら考える姿や、葛藤や、人間味のはずだ。
それが見えない発信が並ぶほど、どこか作られた匂いが強くなる。
SNSは「応援」も量産する。
しかもそれは、応援する側の気持ちより、
“沈黙していると怪しまれる空気”から生まれることも多い。
気づけば、
発信しない自由より、
発信しないことへの不安が勝ってしまう。
こうしてSNSは、
意見交換の場ではなく、
「踏み絵のような場所」になっていく。
私は、この構造そのものに警戒すべきだと思う。
誰が正しいか以前に、
私たちがどんな環境で考えさせられているのかを。
選ぶべきは、声の大きさではない。
並んだ肩書きでもない。
整いすぎたメッセージでもない。
少し立ち止まり、
「なぜ、ここまで一方向なのか」
「なぜ、違和感が表に出てこないのか」
そう自分に問いかける余白を持つことだ。
どうか、
SNSが作る“空気”ではなく、
自分の感覚を信じてほしい。
静かな判断こそ、
今いちばん守るべきものだと思う。
well being それではまた!!