NEC軽井沢72で横峯さくらを観戦して感じた「まだやれる」という反骨心

NEC軽井沢72で見た「まだやれる」という反骨心

週末、NEC軽井沢72ゴルフトーナメントを観戦してきた。

ちょうど会場に着くと、横峯選手のスタート時間と重なった。テレビで見るのと実際に目の前で見るのとでは全く違う。打球音、弾道、そしてショットごとの判断。改めてトッププロの凄さを感じた。

女子ツアーは今、本当に群雄割拠の時代だ。若い選手が次々と台頭し、優勝争いの顔ぶれも毎週のように変わる。その中で横峯選手はベテランの域に入り、さらに子育てもしながらツアーを戦っている。

その姿を見ながら考えていた。

いったい何が彼女を支えているのだろう。

もちろん技術や経験はある。しかしプロの世界では、それだけで戦い続けられるほど甘くない。日々のトレーニング、体調管理、怪我との付き合い方、メンタルの維持。年齢を重ねるほど、その難しさは増していくはずだ。

そんな状況でも前に進み続ける原動力は何なのか。

私には「まだやってやる」という反骨心が大きいのではないかと思えた。

年齢を重ねると、人は経験を積んでいく

経験を積むこと自体は悪いことではない。むしろ財産になっていく

しかし、その経験が時として勝手な限界を作る。

「もう若くないから」 「今さら無理だろう」 「ここまではできるけど、ここから先は厳しい」

そんな想定を無意識に積み重ねてしまう。

私自身、アイスホッケーをやってきたのでよく分かる。

20代の頃は年上の選手に向かって平気でぶつかっていった。ところが30歳を過ぎたあたりから、「若い選手とやってもな、、、」と勝手に想定するようになった。

もちろん体力の差はある。

しかし、本当にそれだけだったのだろうか。

今振り返ると、自分自身で限界を設定してしまっていた部分も大きかったように思う。

仕事ではそんなことはない。

若い人と競争しても負ける気はしない。むしろ経験値という武器がある分、互角以上に戦えると思っている。

ではなぜスポーツになると勝手に諦めのような想定をしてしまうのか。

そんなことを考えながら横峯選手のプレーを見ていた。

目の前には、年齢や立場を言い訳にせず、第一線で戦い続けている人がいる。

「もう無理かもしれない」ではなく、

「まだやれる」

「いや、やり返してやる」

そんな気持ちが伝わってくる。

もちろん現実は簡単ではない。

だが、本当に厄介なのは年齢そのものではなく、自分で作った限界なのかもしれない。

NEC軽井沢72で見た横峯さくら選手のプレーは、ナイスショット以上にそんなことを考えさせてくれた。

現に、ここに戦い続けている人がいるじゃないか。

だったら、自分もまだやれる。

そう思わせてくれる一日だった。

ゴルフの後に見つけた「ちょうど良い時間」 道の駅中山盆地で心を整える

何をするにも効率を考える毎日、、、

仕事はもちろん、休日でさえ「充実させなければ」と考えてしまうことがある。

しかし、今日は違った。

ゴルフをして、カレーを食べて、ジェラートを楽しみ、少し仕事をして、景色を眺める。

特別なイベントがあるわけではない。

何か大きな成果があったわけでもない。

それでも十分な満足感があった。

振り返ってみると、その理由は「全体がゆっくり流れていたから」かもしれない。

特別なものがあったわけではない。

絶景があるわけでもなく、有名な観光地があるわけでもない。

それでも、喧噪がなく、穏やかな時間が流れている。

そのこと自体に大きな価値があると感じた。

普段の私は仕事柄、多くの人と会い、さまざまな案件に関わり、常に頭を回している。気づけば毎日、交感神経をフル回転させながら過ごしているようなものだ。

だからこそ、何もしない時間ではなく、ゆるやかに過ごせる時間が必要なのだと思う。

ゴルフをして、食事をして、少し仕事をして、また景色を眺める。

そんな何気ない過ごし方なのに、心も頭も自然と整っていく。

地方創生や地域活性化の話をしていると、どうしても新しい施設や大きなイベントに目が向きがちだ。しかし、本当に人を惹きつけるのは、こうした「ちょうど良さ」なのではないだろうか。

頑張りすぎない。

派手すぎない。

でも、また来たくなる。

そんな場所が地域には必要なのだと思う。

ノーザンカントリー上毛でゴルフをし、道の駅中山盆地でカレーとジェラートを味わい、コワーキングスペースで少し仕事をする。

ただそれだけの一日だった。

しかし、日々交感神経を使いまくっている私にとっては、とても意味のある時間だった。

また近いうちに、あのゆっくり流れる時間に身を置いてみたいと思う。

「やるべきことを全てやる」だから出た結果

連日の70台、、、結果が出る時は、やるべきことをやった後に来る

今日はお気に入りのゴルフ場であるノーザンカントリー上毛コースへ向かう。

このコースには少し特別な思い入れがある。若い頃から父親によく連れてこられたコースだからだ。プレーするたびにどこか懐かしい気持ちになる。

しかも、このコースは価格帯からは想像できないほど戦略性が高い。

世の中には「安いから仕方がない」というゴルフ場もある。フェアウェイは広く、グリーンも大きく、多少曲げてもなんとかなるコースだ。しかしノーザンカントリー上毛は違う。

フェアウェイは狭い、、、

グリーンも狭い、、、

そして何より、ピンの奥につけた時のグリーンの速さが厄介だ。

ここでは「とりあえずピンを狙う」という考え方は通用しない。常に手前から攻めることが鉄則になる。だからこそ面白い。飛ばすだけではなく、考える力が試されるコースなのだ。

そんなコースで昨日78、今日79。

再開後ずっと切れなかった80の壁を2日連続で突破することができた。

しかも、それがノーザンカントリー上毛だったことに大きな意味を感じている。

広いコースで偶然出たスコアではない。

ミスを許してくれないコースで結果が出た。

これは数字以上の価値がある。

なぜスコアが良くなったのか、、、

振り返ると理由は明確だ。

まず14本のクラブをほぼ同じスイングで振れるようになった。

番手ごとに打ち方が変わるのではなく、スイングは一つ。その再現性が高くなってきた。

次にアプローチ。

ようやく自分の中に「核」ができた。

迷いながら打つのではなく、この状況ならこう打つという基準ができたことが大きい。

そしてパッティング。

まだ完璧な自信があるわけではない。しかし確信が持てない時も一つだけ徹底していることがある。

「カップを外さない」

無理に入れにいかない。

外しても次が残らない距離に寄せる。

たったそれだけで3パットは大きく減る。

さらに今回は技術だけではない。

道具にも徹底的に手を入れた。

クラブを調達した、、

リシャフトで整備した、、、

ボールも最高級品に変えた、、、

グリップもすべて統一した、、、

道具に対する不安が一切ない状態を作った。

「このミスはクラブのせいかもしれない」

そんな言い訳や迷いが生まれる余地を消した。

さらにレッスンに通った、、、

練習も続けた、、、

コースにも週一で出た、、、

長年悩まされてきた膝の治療も進めた。

振り返ると、良くなるためにやっておいた方がいいことは、ほぼ全部やったと思う。

だから結果が出た。

世の中には結果だけを見て「才能があるから」「センスがあるから」と言う人がいる。

しかし実際は違う。

結果が出る前には、見えない準備の積み重ねがある。

道具。

技術。

経験。

身体。

考え方。

どれか一つではなく、すべてを少しずつ改善していく。

今回の78と79は、その積み重ねがようやく形になった数字なのだと思う。

もちろんゴルフなので、来週また90を打つかもしれない。

しかし今は気付いている。

スコアは偶然ではなく、再現できる仕組みから生まれる。

ノーザンカントリー上毛で結果が出たことは、その仕組みが少しずつ完成に近づいている証拠なのかもしれない。

父親との思い出が残るコースで、そんな手応えを感じられたことが何より嬉しい。

【初めての靖国神社】英霊への慰霊と平和への想いを深く考えた一日

初めての靖国神社で感じたこと、、、

先日、東京で暮らす娘の顔を見るついでに、初めて靖国神社を訪れた。

靖国神社については、A級戦犯合祀の問題もあり、国内外で様々な意見があることは承知している。賛成する人もいれば反対する人もいる。それでも、戦没者を慰霊する場所であることに変わりはなく、終戦の季節でもあるこの時期に一度足を運んでみたいと思っていた。

実際に境内へ足を踏み入れて、まず感じたのは「空気が違う」ということだった。

もちろんそれは目に見えるものではない。しかし、長い歴史の中で国のために命を落とした多くの人々への祈りや追悼の積み重なりが、その場の空気を形づくっているように感じた。英霊が本当にそこにいるのではないかと思わせるような、独特の静けさと重みがあった。

参拝の後、併設されている遊就館も見学した。

明治維新以降、日本がどのような時代を歩み、どのような戦争を経験して現在に至ったのか。その展示内容は実に重厚だった。歴史認識についても様々な見方があるだろうが、少なくともそこで失われた多くの命と、一人ひとりに人生があったという事実の重さは疑いようがない。

説明文や遺品、遺書などを見ているうちに、月並みな表現ではあるが、尊い犠牲の積み重ねの上に今の平和な社会があることを改めて考えさせられた。

私たちは今日、どこへ行くか、何を学ぶか、どんな仕事をするか、自ら考え、選択しながら生きている。当たり前のように見えるその日常の中で、未来を思い描き、自分の意思で行動できる。

しかし戦時下では、多くの人々にその選択肢がなかった。

望んで戦地へ向かった人ばかりではない。時代の流れの中で、自らの意思とは無関係に戦禍へ巻き込まれていった人も数多くいたはずだ。

展示を見ながら、彼ら彼女らが抱えていたであろう不安や恐怖、そして果たせなかった夢や未来に思いを巡らせると、正直なところ胸が詰まり、言葉が出なかった。

歴史や政治について語ることは難しい。立場によって見方も変わる。

しかし少なくとも、二度と同じ悲劇を繰り返してはならないこと。そして平穏な日常を当たり前と思わず感謝すること。その大切さだけは誰もが共有できるのではないだろうか。

娘の顔を見るために出かけた東京だったが、思いがけず自分自身と向き合う時間にもなった。

平和とは、ただ与えられるものではない。

過去を知り、先人たちに思いを馳せ、その上で未来を考え続けることで守られていくものなのだと、靖国神社で静かに感じた一日だった。

災害は他人事ではない まずは想いを馳せることから始めよう

想いを馳せることから始まる

災害は他人事ではない、、、そんな言葉を耳にする

しかし実際には、自分の生活が平穏であればあるほど、被災地の出来事は遠く感じてしまうものだ。

テレビやスマートフォンの画面越しに映る被害の様子。

避難所での生活。

復旧作業のニュース。

それらを見ながらも、どこか現実感を持てないことがある。

それは決して悪いことではないと思う。

人は自分の生活を守りながら生きているのだから。

ただ、そのまま目を背けてしまうのは少しもったいない。

地震も、豪雨も、台風も、山火事も。

いま世界のあちこちで起きている災害は、地球から私たちへの壮大な問いかけなのかもしれない。

「本当にこのままでいいのか」

「自然とどう向き合うのか」

「人と人はどう支え合うのか」

そんな問いを投げかけているように感じる。

だからまずは目を背けないこと。

そこからしか始まらない。

もちろん、誰もが被災地へ駆けつけられるわけではない。

ボランティアに参加することも、寄付をすることも、それぞれ事情がある。

無理をする必要はない。

まずは想いを持つこと。

そして想いを馳せること。

ニュースを見て、

「大変だな」

と思うだけでもいい。

被災された方々の気持ちを少しだけ想像してみる。

避難生活とはどんなものだろう。

家族と離れる不安はどれほどだろう。

そんなふうに考えてみる。

それだけでも十分な一歩だと思う。

人は関心を持つことで少しずつ変わる。

昨日まで遠かった出来事が、少しだけ近く感じられるようになる。

そうやって自分なりの感じ方ができれば、まずはそれでいい。

正解などない。

大切なのは、心が動くことだ。

そして不思議なことに、心が温まってくると行動も変わり始める。

募金をしてみようと思うかもしれない。

防災用品を見直そうと思うかもしれない。

地域の避難訓練に参加してみようと思うかもしれない。

あるいは被災地の商品を購入して応援しようと思うかもしれない。

行動の形は人それぞれだ。

でも、その最初の一歩はいつも心から始まる。

心が動き、

心が温まり、

そして体が動く。

災害を自分事として捉えるというのは、そういうことなのだと思う。

大きなことをしなくてもいい。

まずは関心を持つこと。

想いを馳せること。

その小さな心の動きが、いつか誰かを支える力になるのかもしれない。