”燃やすしかなかった”ものが”資源に還る”ということ,,,

多層の壁を越えて──プラスチック再生の転換点

チューブのような多層構造のプラスチック。
その複雑な層の重なりは、長らくリサイクルの限界を象徴してきた。
異なる素材が密着し、しかも使用後には内容物の残渣が残る。
分別も選別もままならず、行き着く先は焼却炉。
「サーマルリサイクル」という言葉が、どこかの正当化を引き受けていた

https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/2506/11/news023.html

だが今、その前提が静かに揺らぎ進み始めている

単一素材でなければ原料に戻せない。
仕分けができなければ資源にはなり得ない。
そうした“常識”の外側に、技術が踏み出しつつある。

多層構造でも、残渣があっても、原料化の可能性が見えてきた。
それは、単なる技術革新ではない。
「戻せない」とされてきたものに、もう一度、循環の可能性を与えるということ。
それは、資源の話であると同時に、人間の選択の話でもある。

現実は、理想のように整ってはいない。
素材は混ざり、汚れ、分けられない。
それでも、そこから資源を取り戻す。
この変化は、循環型社会の実現に向けた、静かで確かな転換点だ。

燃やすしかなかったものが、資源に還る。
その一歩が、いま確かに始まっている

これからもそんな取り組みに注目発信をしていきたい

well being それではまた!!

人とロボットの共創が生む、ホスピタリティの進化~~人とロボットの共創が生む、ホスピタリティの進化~~

ロボットは人間の代替ではない──創造性を支える「パートナー」としての可能性

今日、とあるファミレスでランチに行った 驚いたのはその流れで、、、
入店すると、まず人数と席の形態をタッチパネルで入力。席番号が発行され、案内も不要、、、席に着くと、タブレットで注文。しばらくすると、ロボットが静かに料理を運んできた。食事を終え、会計に進むボタンを押すと、その場で決済が完了。人とほとんど接することなく、食事の一連が完結する。

この体験は、単なる効率化の象徴ではない。むしろ、問いを突きつけてくる。「人がやるべき仕事とは何か?」「人間が担うべき価値とは何か?」、、、を

ロボットは業務を奪うのではなく、業務の意味を問い直す

配膳ロボットの導入事例では、ロボットが業務の一部を担うことで、スタッフが本来注力すべき接客やサービスに集中できる環境が生まれている。ある導入店ではピークタイムの人員を減らしながらも、接客の質を高めることに成功している。これは、ロボットが「代替者」ではなく「支援者」として機能している証だ。

有機的な配置が生む、人とロボットの共創

ロボットをただ導入するだけでは意味がない。重要なのは、その配置が有機的であること。人の動線、業務の流れ、顧客体験の質──それらを見極めた上で、ロボットがどこに立つべきかを考える。そう、ロボットがいわゆるランナー業務を担うことで、人が落ち着いた接客サービスに集中できるようになり、客単価の向上にもつながれるのだ

人間の創造性を支えるテクノロジーへ

ロボットは、人間の働く場所を奪う存在ではない。むしろ、反復的で負担の大きい業務を肩代わりすることで、人間が本来持つ創造性やホスピタリティに集中できる環境をつくる。テクノロジーは、人間の価値を引き出すための「土壌」であり、「道具」であるべきだ。


結びに
ファミレスでの体験は、未来の働き方のヒントを含んでいた。人とロボットが共に働くことで、業務の質は高まり、働く人の満足度も向上する。これからの店舗運営は、効率化の先にある「人間らしさ」をどう守り、どう育てるかが問われている。

well being それではまた!!

評価は相対、記憶は永遠――白鵬翔という存在

―終わりと始まりのあわいにてー

白鵬翔が相撲協会を退職した。歴代最多45回の優勝を誇る大横綱が、土俵を離れてなお相撲界に身を置いてきたが、その歩みもここで一区切りとなった。

発端は、自らが招いた不祥事にある。だが、処分の重さは異例だった。部屋預かりという形での処遇は、単なる懲罰を超えた何かを感じさせる。処分の基準が曖昧であるがゆえに、彼の立場は長く宙づりにされた。そこにあったのは、制度の不透明さと、白鵬という存在の大きさゆえの戸惑いだったのかもしれない。

もちろん、原因を作ったのは彼自身だ。だが、それでもなお、じくじたる思いがあったのではないかと想像する。己の過ちを認めつつも、納得しきれないことが胸に残っていたのではないか。しかしこの段階での退職は、むしろ幸運だったとも言える。傷が浅いうちに離れることができたのだから。

長く逗留すれば、傷は深まる。関係性は摩耗し、やがては断絶する。私自身、似たような経験をしたことがあるからこそ分かる。離れることでしか守れないものがある。再出発は、距離を取るからこそ始まれるのだ。

白鵬は、誰よりも努力した。あの記録は、偶然や才能だけでは成し得ない。ただ相撲が神事であるという側面を、どこかで軽んじてしまったのも事実だ。勝ちにこだわるあまり、形式や伝統を後回しにした瞬間があった。だが、それもまた、一つの道を極めようとする者にとっては避けがたい「抜け」なのかもしれない。

人は一部を見て、全体を語ろうとする。だが、強みは時に弱みにもなり、弱みは見方を変えれば強みにも映る。評価とは常に相対であり、絶対ではない。

白鵬翔という存在は、相撲界にとって光でもあり、影でもあった。だが、その両面を併せ持ってこそ、人は深みを持つ。これから彼がどのような道を歩むのかは分からない。だが、一人の相撲ファンとして、その歩みを静かに見守りたいと思う。

新たな舞台で、彼が再び輝くことを願ってやまない。

well being それではまた!!


今だから出来る旅、、、今だから会える友、、、

ココロの洗濯をしに行く、、、岐阜にて

大学時代から30年以上の付き合いになる友人を訪ねて、岐阜へ足を運んだ。

目的はふたつ。ひとつは、かつての戦友のような友と過ごす時間。もうひとつは、明治と早稲田のラグビーの一戦を観ること。

関ヶ原の古戦場を歩きながら、ふと立ち止まる。

かつてこの地で命を懸けた人々の想いに思いを馳せながら、自分たちの30年という時間の重みを感じていた。

あの頃は、未来なんて漠然としていて、ただ目の前のことに夢中だった。

それが今では、互いの歩んできた道を静かに讃え合えるようになっている。

比較も批評ではない、、、ただ「今」を共有できることが、何よりの贅沢だ。

夜は、美味しい料理と酒を囲みながら、昔話に花が咲く。

笑い声が絶えず、時折静かな瞬間もある。

でもそれもまた、歳を重ねたからこその味わいだろう。

そして最終日は、明治と早稲田の激突を観戦、、、

熱気と歓声に包まれながら、心が震える。

スポーツの持つ力は、年齢を超えて胸を打つ。

あの瞬間、ただの観客ではなく、何か大きな流れの一部になったような気がした。

50も半ばを過ぎて、ようやくこういう時間の尊さがわかってきた。

目一杯遊んで、ぐっすり眠れて、そして心の奥に溜まっていたモヤモヤが、すっと洗い流されていく。

まるで、ココロの洗濯をしたような旅だった。

こういう時間は、意識してでも持った方がいい。

今回は妻を連れて行かなかったことで、ちょっと叱られてしまったけれど……次は一緒に行こうと思う。

きっとまた、違った景色が見えるはずだから

well being それではまた‼︎

”うまくいっている“のに考えこむ日々がある、、、

「上々」と「まだまだ」の狭間で、、、

先月に引き続き、今月も月初から目標売上を達成している

しかも、無理に詰め込んだわけでもなく、単価も保ちつつ、自分が「やりたくない」と感じる相手とは距離を置いたままでだ

そんな理想的なペースで進められていることに、ふと驚くが、、、

「順調だな」と思う一方で、心のどこかで「でもこれは主要顧客の比率が高いからでは?」「スポット案件が増えてるだけでは?」と、ついアラを探してしまう。

人間って、どうしても“足りないところ”に目がいく生き物なんだなと、改めて感じる。

でも、それはきっと「もっと良くなりたい」「もっと成長したい」という、前向きな欲の裏返し。

現状に満足しきれないのは、決して悪いことじゃない。

むしろ、そういう気持ちがあるからこそ、次の一歩を踏み出せるのだと思う。

だからこそ、今の自分をちゃんと認めてあげたい、、、

「よくやってるよ」と。

そのうえで、「まだまだいける」と思える自分の声にも、ちゃんと耳を傾けていきたい。

”上々“と“まだまだ”、、、

そのあいだで揺れながら、今日もまた、自分のペースで進んでいこう

well being それではまた‼︎