いい人でも取引は壊れる:ビジネスの本質とは何か

ビジネスにおける「悪い人じゃない」という無意味さ

ーー取引の本質はもっとシンプルだ

ビジネスの場面で、誰かの振る舞いが問題になったときに
「いや、あの人そんなに悪い人じゃないんですけどね」
というフォローを聞くことがある。

でも、この言い回しほどビジネスにおいて意味のない言葉はないと思っている。

そもそも、極悪人なんてめったにいない。
そして、全方面に対して悪意のある人間もほとんどいないと思える
だから「悪い人じゃない」は、ほぼ全員に当てはまる、価値のない評価だ。

では、ビジネスにおける評価基準はどこにあるのか。

取引はシンプルで、「やるか」「やらないか」しかない

ビジネスは取引だ。
もっと言えば、約束を守るかどうかしか見ていない。

支払い期日を守るのか。
合意した条件を実行するのか。
変更が必要なら、事前に説明し調整するのか。

たったそれだけのことが、できるのか・できないのか。

ビジネスを続けたいと思えば支払うし、
続ける気がなければ払わない。

構造は驚くほどシンプルだ。

だから「悪い人じゃない」なんて人格の話は、本質とはまったく関係がない。

一番困るのは、約束事を“黙って変える”タイプ

こちらが一番困るのは、
約束事を 断りもなく変更することに何の抵抗もない人たち だ。

・支払い期日を後ろ倒し
・納期を勝手に延長
・決めた仕様を黙って変える
・「そのつもりはなかった」と言い出す

こうした人たちも、別に“悪い人ではない”のかもしれない。
怒鳴るわけでも、裏切ろうとしているわけでもないのかもしれない。

ただ単に、「その行為がどれだけ相手の信用を傷つけるか」を理解していないだけだ。

しかし、ビジネス上はそれが致命的だ。

信用とは「約束を守る習慣」によってしか積み上がらない

信用とは人格ではなく、
毎回の小さな約束を守ってきた実績 によって積み上がる。

だから「悪い人じゃないから大丈夫」という論理は破綻している。

むしろ、
「良い人かどうか」より
「約束を守る人かどうか」
のほうが100倍重要だ。

ビジネスは人間関係の一部ではあるが、
友達や仲間とは違う。

“いい人”だから許す、という世界ではない。
“信頼できる人”かどうか、それだけだ。

ビジネスは人格評価ではなく、行動評価

結局、ビジネスはつくづく行動の世界だと思う。

・支払うべきときに支払う
・決めたことは守る
・変更があれば説明する
・できないことは事前に言う

ただそれだけのことができるかどうか。

「いい人かどうか」という曖昧な基準で判断するのではなく、
行動の一貫性 を軸にしたほうが、ビジネスは格段にシンプルになる。

well being それではまた!!

動けない苦しさから抜け出す方法|少しずつ現実を動かすという選択

留まり続ける苦しさと、動かすという選択

留まって、軋轢の中で喘いでいるのはとても苦しい、、、
分かっているのに動けない。
違和感はあるのに、毎日は淡々と過ぎていく。

そして、その場から返ってくるフィードバックは、
だんだんと蹴とばしたくなるようなものばかりになっていく、、、

もし今のそのフィードバックを変えたいなら、
同じ場所で耐え続けても何も変わらない。
新しいフィードバックをもらうしかない。

これは逃げでも、裏切りでもない。
構造の話だ。

全部を変えなくてもいい

とはいえ、現実を全部入れ替えるのは簡単じゃない。
覚悟もいるし、時間もかかる。
正直、そこまで踏み出せない時期もある。

だから、全部じゃなくていい。

仕事の一部,,,
関わる人の一部,,,
時間の使い方の一部,,,

ほんの少しでいいから、自分を動かす。
自分の位置を、数センチずらす。

それだけでも、返ってくる反応は変わり始める。

ゆでガエルにならないために

人は、急激な変化には敏感だが、
緩やかな悪化には驚くほど鈍感だ。

気づいた時には動けない、
いわゆる「ゆでガエル」になる。

そしてさらに怖いのは、
批判だけを口にするようになることだ。

何も変えず、何も賭けず、
ただ文句だけが増えていく。

それは、自分が一番なりたくなかった姿のはずだ。

現実は、思っているより動かせる

実際のところ、
現実は思った以上に辛辣ではないし、
思った以上に思い通りに動かせる。

一気には無理でも、少しずつなら確実に動ける。
少しずつなら、形を創っていくことができる。

そして、新しい場所に行けば、
必ず違うフィードバックが返ってくる。

評価は常に相対である

そこで初めて分かる。

評価は、絶対ではない。
常に相対だ。

誰が、どこから、どう見るか。
それだけで、評価はいくらでも変わる。

全員に良く見られる必要なんてない。
むしろ、全員に好かれる方が気持ち悪いし、
現実的にも相手にできない。

少数でいい。
ちゃんと見てくれる人が、ちゃんと必要としてくれる場所があればいい。

少数であることの強さ

少数だからこそ、深く関われる。
少数だからこそ、価値を磨ける。
少数だからこそ、存在する意味がはっきりする。

留まり続けてすり減るより、
少しずつ動いて、少数に選ばれる方がいい。

それは世界を狭める選択ではない。
自分がちゃんと立てる場所を、
自分の意思で選び直すということだ

well being それではまた!!

留まることで消耗し、選ぶことで自由になる|自分しか救えない人とやるという選択

留まるという選択か、敢えてそこに在るという意思か

いつの間にか動けなくなってそこに留まっているのか、、、
それとも、深掘りするために敢えてそこに存在しているのか、、、

この二つは、見た目が似ていても本質はまったく違う。
そして人は、気づかぬうちにそのどちらかに立っている。

ただ留まっている状態は、往々にして「動けない理由」を内包している。
環境、立場、期待、しがらみ、、、
「ここにいなければならない」という思い込みで、行動と思考の幅を少しずつ削っていく。

その結果、どうなるか。
軋轢が溜まる、、、
自分の中にも、周囲との間にも。

留まること自体が悪いわけではない。
問題は「なぜ留まっているのか」を自分で言語化できなくなることだ。

「必要とされている」という都合のいい解釈

人は自分を納得させるために、便利な解釈を使う。

「ここは自分を必要としている場所だ」
「自分が抜けたら回らない」
「今は動くタイミングじゃない」

そう思えば、心は一時的に落ち着く。
だがそれは、本当に事実だろうか。

必要とされている、という言葉は強い。
同時に、とてもとても曖昧なものだ。

誰にとって、どのレベルで、どの期間必要なのか。
そこを深掘りしないまま使うと、「留まる理由」にすり替わってしまう。

自分を必要とされる場所、と強引に解釈しなくてもいい。
そうしないと立っていられない関係性なら、すでに歪みが始まっている。

「自分しか救えない人」とやるという覚悟

一方で、もう一つの選択肢がある。

自分しか救えない人とやっていく、という選択だ。
それは、感情論ではなく、構造の話でもある。

その人にとって
・自分がいなければ前に進めない
・代替が効かない
・双方にとって成長が不可欠

そういう関係性だけを選ぶ。

これは、両者にとって絶対的で、必要不可欠な関係になる。
楽ではない。
むしろ、軽い気持ちでは続かない。

だが、そこには「敢えてそこに在る」という明確な意思が生まれる。

選択を狭めることで、自由になる

一見すると、この選択は世界を狭めるように見える。
受ける仕事も、人間関係も、明らかに減る。

だが実際は逆だ。

広く受け付けないでいい、という状態は、驚くほどやりやすい。
説明にエネルギーを使わなくていい。
無理に合わせなくていい。
違和感を放置しなくていい。

「誰でもいい」から「この人だけ」に変わると、
判断は速くなり、迷いは減る。

留まることによる消耗ではなく、
存在することによる緊張感と手応えが残る。

留まるか、在るか

今、自分は
・ただ留まっているのか
・敢えてそこに在るのか

この問いは、環境ではなく自分に向けるものだ。

動かない選択も、動く選択も、どちらも正しい。
ただし、無意識であることだけは、後から必ずツケになる。

留まるなら、意思を持って留まる。
在るなら、理由を語れる場所に在る。

その覚悟があるかどうかで、
同じ場所にいても、見える景色はまったく変わっていくのだ

well being それではまた!!


50代は健康のゴールデンタイム|膝の回復から考える人生の立て直し

膝の調子が、本当に良い,,,
ここまで違和感なく動けるのは、いつぶりだろうかと思うほどだ。

「膝の痛みが軽くなる」「日常動作が怖くなくなる」
この感覚は、経験した人にしかわからない。
50代になってからの膝の不調は、単なる痛み以上に、生活の質そのものを下げてくる。

膝の痛みが残したもの|筋力低下と“怖さ”

ただし、痛みが引いたからといって、すべてが元通りになるわけではない。

長くビッコを引いていたことによる筋力低下,,,
痛みをかばって動いていたことで残った「また痛くなるかもしれない」という怖さ,,,
それらが尾を引いてまだすべてを取り戻せているとは言えない。

少し前に、こんな感覚を書いたことがある。

身体も感覚も、週に二回は使わないと確実に下がっていく。

そう思うと、、、この半年近く、
手すりを抱え、ビッコを引きながら生活していたのだから、
膝周りの筋力やバランス感覚が落ちるのは当然だ。

50代の膝の回復は「治る」より「取り戻す」感覚に近い。
時間も、意識も、確実に必要になる。

50代は健康を建て直せる最後の現実的な年代

50代は、不思議な年代だと思っている。

仕事も経験値があり、
家族との関係も一巡し、
「自分に集中する」ことが現実的にできる年代だと思う

一方で、
膝、腰、筋力、回復力――
肉体的な衰えが、はっきりと姿を見せ始めるのもこの年代だ。

集中できる時間と、衰えが始まる身体、、、
この二つが交差する地点に、今の自分は立っているのだと思う

健康・仕事・家族が交差する“クロス”の時間

これまでの人生には、

  • 仕事に重きを置かざるを得なかった時期
  • 家族よりも前に出なければならなかった時期

が確かにあった。

そして、これから先には、
「衰えのほうが主役になる時間」も、きっと待っている。

だったら、この交差点に立っている今こそが、人生の質を上げるゴールデンタイムなのだと思う。

膝を立て直す。
体力を取り戻す。
生活の質を上げる。

先送りする理由は、もうない。

健康回復は人生の再スタートでもある

今を、目いっぱい楽しみたい。
リハビリも、筋力回復も、制限のある生活も含めて、今の自分だ。

娘は、合格という結果によって、自分の可能性を大きく広げた。
それを見て思う。

人生は、同時進行だ。
誰かのスタートは、誰かの再スタートにもなる。

膝の回復とともに、
自分の時間、自分の身体、自分の人生を、もう一度建て直していく。

50代は、まだ間に合う。
むしろ、今だからこそできる。

健康回復は、単なる治療ではない。
生き方そのものを、整え直すプロセスなのだと思っている

well being それではまた!!

娘の大学進学が確定した日|苦しかった10代が美術と未来につながるまで

娘が、自分の海へ漕ぎ出す日

娘が大学生になることが、確定した。

それだけを書けば、よくある親の記録だ。
だが、ここに至るまでの道のりは、決して一直線ではなかった。

苦しい10代中盤から後半を過ごした彼女、、、
そして親である自分の選択や価値観が、彼女を袋小路に追い込んでしまったのではないかという悔恨は、今でも消えていない。
「あの時、別の関わり方ができたのではないか」
そんな問いが、ふとした瞬間に胸をよぎる。

それでも今、彼女が歩んできた道を振り返ると、そんな中でも自分の力で育んだものが確かにある。

美術への興味、、、
表現することへの執着、、、
言葉にならない感情を、形や色に託そうとする姿勢、、、

もし、あの遠回りがなければ、これらは生まれなかったのかもしれない。
そう思えるようになった今、あの時間もまた、必要なプロセスだったのではないかと感じている。

結果として彼女は、自分が歩んだ道を「正解」にしてくれた。
その軌跡に、心から「ありがとう」と言いたい。

今、彼女はまさに、自分自身の世界という大海原のスタートラインに立っている。
前途洋々たる未来が、どこまで広がっているのかは誰にもわからない。
だが、それでいい。

親にできることは、もう多くはない。
進路を決めることも、答えを与えることもできない。
ただ、前だけを向いて進めるよう、背中を押し、応援するだけだ。

もしかしたら、これから先、振り返ることすらないのかもしれない。
それでもいいと思っている。

22年間、一緒にいてくれた。
それだけで、充分すぎるほどの親孝行だ。

ありがとう。
そして、いってらっしゃい。

自分は、応援するだけだ