赦すということ
赦すという行為には、どこか「譲歩」や「妥協」のような響きがある。自分が何かを譲ってしまったような、相手に負けたような、そんな気持ち悪さが残ることもある。特に、理不尽なことをされたときや、納得できないまま終わった関係においては、「赦す」という言葉がまるで自分を裏切るように感じることもある。
でも、赦すことで解放されるのは、他でもない自分自身だ。
人は、相手に何かを伝えようとする。理解してほしい、謝ってほしい、認めてほしい。ギリギリまで言葉を尽くしても、届かないことがある。むしろ、届かないことの方が多い。それなのに、なぜか人間はそこに執着してしまう。心の中で何度も繰り返し、あの時の言葉、あの時の態度を思い出しては、また傷つく。
捉われる。それが人間だ。
完全に捉われないで生きることは、ほぼ不可能だ。記憶がある限り、感情がある限り、何かに引っかかりながら生きていく。でも、ある一定のラインを越えたら、もう赦免でいい。それは相手のためではない。自分のためだ。
赦すというのは、相手を許すことではない。自分を赦すことだ。
「もういいよ」と、自分に言ってあげる。「もうそこから自由になっていいよ」と、自分に許可を出す。それは、過去に縛られていた自分を解き放つ行為だ。赦すことで、心の中に空白が生まれる。その空白には、新しい風が吹き込む。新しい視点、新しい感情、新しい自分。
赦すことは、弱さではない。むしろ、強さだ。自分を縛っていた鎖を、自分の手で外す勇気だ。
そして、赦すことは終わりではない。始まりだ。自分を赦したその瞬間から、また新しい一歩が始まる。
well being それではまた!!