留まることで消耗し、選ぶことで自由になる|自分しか救えない人とやるという選択

留まるという選択か、敢えてそこに在るという意思か

いつの間にか動けなくなってそこに留まっているのか、、、
それとも、深掘りするために敢えてそこに存在しているのか、、、

この二つは、見た目が似ていても本質はまったく違う。
そして人は、気づかぬうちにそのどちらかに立っている。

ただ留まっている状態は、往々にして「動けない理由」を内包している。
環境、立場、期待、しがらみ、、、
「ここにいなければならない」という思い込みで、行動と思考の幅を少しずつ削っていく。

その結果、どうなるか。
軋轢が溜まる、、、
自分の中にも、周囲との間にも。

留まること自体が悪いわけではない。
問題は「なぜ留まっているのか」を自分で言語化できなくなることだ。

「必要とされている」という都合のいい解釈

人は自分を納得させるために、便利な解釈を使う。

「ここは自分を必要としている場所だ」
「自分が抜けたら回らない」
「今は動くタイミングじゃない」

そう思えば、心は一時的に落ち着く。
だがそれは、本当に事実だろうか。

必要とされている、という言葉は強い。
同時に、とてもとても曖昧なものだ。

誰にとって、どのレベルで、どの期間必要なのか。
そこを深掘りしないまま使うと、「留まる理由」にすり替わってしまう。

自分を必要とされる場所、と強引に解釈しなくてもいい。
そうしないと立っていられない関係性なら、すでに歪みが始まっている。

「自分しか救えない人」とやるという覚悟

一方で、もう一つの選択肢がある。

自分しか救えない人とやっていく、という選択だ。
それは、感情論ではなく、構造の話でもある。

その人にとって
・自分がいなければ前に進めない
・代替が効かない
・双方にとって成長が不可欠

そういう関係性だけを選ぶ。

これは、両者にとって絶対的で、必要不可欠な関係になる。
楽ではない。
むしろ、軽い気持ちでは続かない。

だが、そこには「敢えてそこに在る」という明確な意思が生まれる。

選択を狭めることで、自由になる

一見すると、この選択は世界を狭めるように見える。
受ける仕事も、人間関係も、明らかに減る。

だが実際は逆だ。

広く受け付けないでいい、という状態は、驚くほどやりやすい。
説明にエネルギーを使わなくていい。
無理に合わせなくていい。
違和感を放置しなくていい。

「誰でもいい」から「この人だけ」に変わると、
判断は速くなり、迷いは減る。

留まることによる消耗ではなく、
存在することによる緊張感と手応えが残る。

留まるか、在るか

今、自分は
・ただ留まっているのか
・敢えてそこに在るのか

この問いは、環境ではなく自分に向けるものだ。

動かない選択も、動く選択も、どちらも正しい。
ただし、無意識であることだけは、後から必ずツケになる。

留まるなら、意思を持って留まる。
在るなら、理由を語れる場所に在る。

その覚悟があるかどうかで、
同じ場所にいても、見える景色はまったく変わっていくのだ

well being それではまた!!


50代は健康のゴールデンタイム|膝の回復から考える人生の立て直し

膝の調子が、本当に良い,,,
ここまで違和感なく動けるのは、いつぶりだろうかと思うほどだ。

「膝の痛みが軽くなる」「日常動作が怖くなくなる」
この感覚は、経験した人にしかわからない。
50代になってからの膝の不調は、単なる痛み以上に、生活の質そのものを下げてくる。

膝の痛みが残したもの|筋力低下と“怖さ”

ただし、痛みが引いたからといって、すべてが元通りになるわけではない。

長くビッコを引いていたことによる筋力低下,,,
痛みをかばって動いていたことで残った「また痛くなるかもしれない」という怖さ,,,
それらが尾を引いてまだすべてを取り戻せているとは言えない。

少し前に、こんな感覚を書いたことがある。

身体も感覚も、週に二回は使わないと確実に下がっていく。

そう思うと、、、この半年近く、
手すりを抱え、ビッコを引きながら生活していたのだから、
膝周りの筋力やバランス感覚が落ちるのは当然だ。

50代の膝の回復は「治る」より「取り戻す」感覚に近い。
時間も、意識も、確実に必要になる。

50代は健康を建て直せる最後の現実的な年代

50代は、不思議な年代だと思っている。

仕事も経験値があり、
家族との関係も一巡し、
「自分に集中する」ことが現実的にできる年代だと思う

一方で、
膝、腰、筋力、回復力――
肉体的な衰えが、はっきりと姿を見せ始めるのもこの年代だ。

集中できる時間と、衰えが始まる身体、、、
この二つが交差する地点に、今の自分は立っているのだと思う

健康・仕事・家族が交差する“クロス”の時間

これまでの人生には、

  • 仕事に重きを置かざるを得なかった時期
  • 家族よりも前に出なければならなかった時期

が確かにあった。

そして、これから先には、
「衰えのほうが主役になる時間」も、きっと待っている。

だったら、この交差点に立っている今こそが、人生の質を上げるゴールデンタイムなのだと思う。

膝を立て直す。
体力を取り戻す。
生活の質を上げる。

先送りする理由は、もうない。

健康回復は人生の再スタートでもある

今を、目いっぱい楽しみたい。
リハビリも、筋力回復も、制限のある生活も含めて、今の自分だ。

娘は、合格という結果によって、自分の可能性を大きく広げた。
それを見て思う。

人生は、同時進行だ。
誰かのスタートは、誰かの再スタートにもなる。

膝の回復とともに、
自分の時間、自分の身体、自分の人生を、もう一度建て直していく。

50代は、まだ間に合う。
むしろ、今だからこそできる。

健康回復は、単なる治療ではない。
生き方そのものを、整え直すプロセスなのだと思っている

well being それではまた!!

娘の大学進学が確定した日|苦しかった10代が美術と未来につながるまで

娘が、自分の海へ漕ぎ出す日

娘が大学生になることが、確定した。

それだけを書けば、よくある親の記録だ。
だが、ここに至るまでの道のりは、決して一直線ではなかった。

苦しい10代中盤から後半を過ごした彼女、、、
そして親である自分の選択や価値観が、彼女を袋小路に追い込んでしまったのではないかという悔恨は、今でも消えていない。
「あの時、別の関わり方ができたのではないか」
そんな問いが、ふとした瞬間に胸をよぎる。

それでも今、彼女が歩んできた道を振り返ると、そんな中でも自分の力で育んだものが確かにある。

美術への興味、、、
表現することへの執着、、、
言葉にならない感情を、形や色に託そうとする姿勢、、、

もし、あの遠回りがなければ、これらは生まれなかったのかもしれない。
そう思えるようになった今、あの時間もまた、必要なプロセスだったのではないかと感じている。

結果として彼女は、自分が歩んだ道を「正解」にしてくれた。
その軌跡に、心から「ありがとう」と言いたい。

今、彼女はまさに、自分自身の世界という大海原のスタートラインに立っている。
前途洋々たる未来が、どこまで広がっているのかは誰にもわからない。
だが、それでいい。

親にできることは、もう多くはない。
進路を決めることも、答えを与えることもできない。
ただ、前だけを向いて進めるよう、背中を押し、応援するだけだ。

もしかしたら、これから先、振り返ることすらないのかもしれない。
それでもいいと思っている。

22年間、一緒にいてくれた。
それだけで、充分すぎるほどの親孝行だ。

ありがとう。
そして、いってらっしゃい。

自分は、応援するだけだ

頑張りすぎると自分を傷つける|赦して歩み続けるという選択

そうなのだ。
そこをギリギリまで追い込んでしまうと、結果的に一番傷つくのは自分だったりする。

「もう少しできたはずだ」
「本当は、こうあるべきだった」

その声に引きずられて、今日という一日全部を否定してしまう必要はない。

今日は、今日やるべきことをやった。
それで十分だ。
あとは赦してしまえばいい。

不思議なもので、そうして肩の力を抜いていると、
いつの間にか賽の目が変わっていくことがある。

狙って変えようとしても動かなかった流れが、
構えを解いた瞬間に、少しだけ向きを変える。

自分で、自分で何とかしなければ。
そう力まなくてもいい。

流れには、任せられる部分もある。

明日も、明後日も、人生は続いていく。
一度や二度、思い通りにいかなかったからといって、物語が終わるわけではない。

だから大切なのは、
正解を出し続けることでも、
完璧であることでもない。

歩みを止めないことだ。

遅くてもいい。
遠回りでもいい。
時には立ち止まってもいい。

それでも、また一歩出せばいい。

「こうあるべき」に縛られず、
「こうありたい」を忘れず、
今日を生ききって、赦して眠る。

それを繰り返しているうちに、
気がつけば、ちゃんと前に進んでいる。

人生は、そういうものなのだと思う

well being それではまた!!

『こうあるべき』に疲れたら読む話|年齢とともに硬くなる自分を軽やかにする考え方

「こうありたい」と「こうでなくては」のあいだで

「こうありたいな」と思える感覚は好きだ。
それは自分らしさに触れている感じがするし、背伸びはしていても、芯はぶれていない感覚だ

でもいつの間にか、それが
「こうでなくてはならない」
にすり変わってしまうことがある。

この違いは小さいようで、実は大きなモノになっているのだ。

「こうありたい」は広がる。
「こうでなくては」は、途端に自分を狭くしちゃうのだ

現実は、だいたいうまくいかない。
思っていた通りにならないことの方が多いし、ましてや他者との関わりの中では猶更うまくいかない

相手がいる。
相手にも事情がある。
感情も、価値観も、タイミングも揃わない、、、

それなのに、
「こうあるべきだ」
を手放さずにいると、ただただ疲れてくる。

現実と理想のズレを、全部自分で受け止めようとするからだ。

「それは、そうなんかぁ」

どうとも解釈していない、、、本当は、それくらいでいいはずなのに。

納得でも諦めでもなく、
一旦、そう受け取ってみる。

「まあ、そういうこともあるよな」
「今はそういう流れなんだろう」

その一言で、呼吸が戻ることがある。


ただ厄介なのは、年齢を重ねるほど、この寛容さが薄くなりやすいことだ。

経験が増える。
成功も失敗も積み重なる。
自分なりの「正解」ができあがる。

すると、無意識のうちに
「自分はこうしてきた」
「だから、こうあるべきだ」
という軸が強くなる。

それ自体は悪くない。
むしろ、積み上げてきた証でもある。

でも、その軸が硬くなりすぎると、自分の動きまで鈍くしてしまう。

だからこそ、ここは意識して軽やかにしたい。

勘違いしやすいのは、
これが「妥協」や「自分を下げること」だと思ってしまう点だ。

違うのだ、、、

無理をして飲み込むことでも、我慢し続けることでもない。

「こうでなくては」を緩めることは、負けることではない。

むしろ、そこには第三の境地が開く。

白か黒か。
正しいか間違っているか。
やるべきか、やるべきでないか。

その二択から一歩外れたところに、新しい選択肢が生まれる。

それは、我慢の延長ではない。
自分をすり減らす選択でもない。

「今の自分なら、こうもアリだな」
という、新しい選び直しだ。

「こうありたい」を持ちながら、
「こうでなくては」に縛られない。

それは、自分を甘やかすことでも、諦めることでもない。

変化し続ける自分を信頼する、ということだと思う。

年齢を重ねるからこそ、
頑なになるのではなく、
しなやかになる。

それは、下がることではない。
次のフェーズに進むための、選択だ。

我慢ではない、新しい選択なのだ

well being それではまた!!