からだを使い切ることでしか得られない休息、、、動き続ける日々の中で、ようやく訪れた静けさ

感神経のスイッチを切る方法感神経のスイッチを切る方法、、、

個人事業主という生き方は、常に何かが動いている。
頭の中では次の段取り、次の連絡、次の締切が渦を巻き、交感神経は休む間もなく張り詰めたまま。
止まることが怖いのではなく、止まり方を忘れてしまったのかもしれない。

眠りが浅い日が続いていた。
寝ているはずなのに、朝が来るたびに疲れが残っている。
夢の中でも何かを考えていたような、そんな感覚だけが残る。

今日は朝からゴルフ、そのままお客様の周年事業へ。
気づけば20,000歩を超えていた。
朝から夜まで、ひたすら動き続けた一日。
足は重く、体は鉛のように沈んでいたけれど、不思議と心は静かだった。

夜、布団に入った瞬間、深く沈むように眠りに落ちた。
何も考えず、何も感じず、ただ眠るという行為に身を委ねられた。
からだがようやく、「もういいよ」と言ってくれた気がした。

休むとは、何もしないことではない。
からだを使い切ることで、ようやく訪れる静寂がある。
頭で考える「休息」ではなく、からだが納得する「終わり」が必要だった。


でも、ちゃんと疲れた日は、ちゃんと眠れる

ココロが疲れたらカラダを動かせばいい
深い睡眠こそ最も深いリカバリーになるってことだ

well being それではまた!!


循環する地域社会の実現へ、、、住み続けられるまちづくりを可能にする継続力

循環する地域社会の実現へ——住み続けられるまちづくりを可能にする継続力

群馬県東吾妻町では、新聞店の店主が中心となり、街中の古紙を集め、それを資源として売却。その収益を地元のマルシェや祭りの賑わいへ還元する取り組みが続いている。単なるリサイクル活動ではなく、地域経済の活性化と持続可能な街づくりへと発展しているのだ

新聞店には、新聞社から余分な部数が押し付けられる悪習があり、それが残ってしまうことに悩んでいた店主、、、負の遺産をプラスに転じられないかと考え始めたのが約10年前だ 個人的な解決策ではなく、地域全体の仕組みに組み込めれば、大きな変化が生まれるのではないかと着想し、行動を起こしたのだ

新しいことを始めると、必ず予算の問題が立ちはだかる。補助金を活用する手もあるが、それに頼り続けることはできない。本当に持続可能な仕組みを作るには、「誰も無理をせず、自然に動ける仕組み」が必要だ。負担なく継続できる活動こそ、地域の未来を支える力になる。

今では、若手商店主たちが協力し、定期的に役場跡地でマルシェを開催するまでに発展した。しかし、黎明期は孤独だった。新しいことを始めると、必ず批判する者が現れる。「功名心からだろう」「どうせ続かない」など、心ない言葉を浴びせる者もいたはずだ 何もしない者ほど批判する。しかし、店主は信念を貫き、静かに怯まず、弛まず活動を続けた。

10年という歳月をかけた継続的な取り組みが、時代の流れと合致し、サステナブルな社会を求める風潮の中で、この活動が歓迎されるものとして根付いてきた。地域住民の協力が広がり、古紙回収の輪が拡大し、それが街の活力へとつながっている。

地域に根ざした持続可能な街づくりは、一人の情熱から始まり、それが周囲へと広がることで実現する。東吾妻町で生まれたこの動きは、単なる資源循環の枠を超え、人々の暮らしと街の未来を形作るものになっている

一人からでも始まる 始められるを教えられた 皆さんにも、、、そして私にもだ

well being それではまた!!

循環へ ヒトを活かす、、、多様に、、、

オーバー70人財が540万人へ——シニアの活用がカギとなる時代

世界有数のシニア大国のニッポンでは未知なる長寿社会へと突入しようとしている そんあこれからの社会において、「オーバー70」の人々をどう活かすかが、大きな鍵を握ると思っている

彼らは長年の人生経験を積み、酸いも甘いも知り尽くしてきた それなのに年齢を理由に役割を終えたかのように扱うのは、あまりにももったいない。もちろん、体力の問題は避けられないが、若いころのように「俺が俺が」と主張せず、尊重と共感をもってチームを支え、照らす存在になれるのがシニア世代の強みなのだ

年齢で線を引くのではなく、それぞれの希望に応じた選択ができる人事制度が必要だ。働かずに趣味に生きるのもいいし、仕事を通じてフィードバックを得ることで社会とつながるのもいい。その柔軟性こそ、これからの社会の強みになっていく。

若者とシニアの共存にも注目すべきだ。若者は経験が浅く、怖さを知らないからこそ大胆な挑戦ができる 一方で、シニアは協調性を重んじ、円滑な関係を築くことが得意だ この二者が互いの特性を活かしながら共存できれば、新しい価値が生まれ、創造的な社会が広がる

ただ、「頑固」「昔の考えに固執しがち」といったシニアへのイメージは、いまだに根強い 「知らないから」「自分のほうが経験があるから」といった比較や批評が強くなりすぎると、周囲との摩擦を生むこともある。それが「老害」とされ、意図せずともそう見られてしまうこともある。そうならないためには、世代間の相互理解を深めることが重要になる。

人材不足が進み、社会の変化が加速する今、オーバー70の人財をどう活かしていくか、、、この問いに向き合うことが、持続可能な社会を築くための鍵となる

誰しもが”持続可能”を求めている、、、同じ目的目標であることは改めて想っておきたい

well being それではまた!!

それなりに過ごせたコトこそ本当の豊かさになるのだろう!!

いつでもどこでも幸せを見つけられれば、、、

今日も特にこれといった出来事がなく、平凡な一日だった。まあ、実際そんなもんなんだ 毎日がリア充であったり、特別なことが起こったりするわけではない。考えてみれば、リア充というのは、その瞬間瞬間の積み重ねであり、一日中それが続くなんて現実的ではない気がする でも、そんな日常の中にも、瞬間的な楽しみを見出すことはできると思うのだ

何か特別なことが起こらなければならないという考えはむしろプレッシャーになる 今のありのままの日常の中にも、目を向ければいろんな小さな「幸せ」は転がっている。例えば、心地よい風を感じる瞬間だったり、気温が少しずつ暖かくなってきたなと感じるときだったり、昼ご飯を美味しくいただけたなという実感だったり。これらは誰にでも訪れる、ごく普通の出来事だ。それを「なんでもないこと」として見過ごすのではなく、しっかり事実として感じ取ること。それが「あ~、なんかいいな」「あ~、少しほっとする」といった小さな喜びになる 交感神経が交錯しているのを休めさせれたならそれでいいのだ

過度に期待を持たず、それでいて否定的にもならない。日常の中で「何てことがない」状態こそが、実は大事なんじゃないかと思う。今日もこうして無事に過ごせている、それで十分なのだ。何も特別なことがなくても、何も起こらなくても、そんな一日をしっかりと「生きる」ことで、明日への希望が開けていくんじゃないかな。

どこにいても、どんな状況でも、幸せを想像できる。それができれば、いつでも自分を穏やかに保つことができる気がする。全く「何てことがない」一日でも、その一日を慈しむ心を持てたら、それだけで明日への道が明るくなる。

平凡で、それなりに過ごせる日々の中に、本当の豊かさがあるのかもしれない

well being それではまた!!

事実ベースで進みたい!!

事実ベースで進もう、、、

自分や他人に対する評価とは、相対的なものであり、決して絶対的なものではない それは常に変わり続けるものであって、一瞬の感覚に基づいた流動的なものに過ぎない。さらに言えば、その評価はその瞬間だけに存在するものであり、永遠に固定化されるようなものでもない。それが事実だと思う

例えば、「これは弱みだ」と決めつけられる点があったとしても、それが本当に弱みであるかはその見方次第だ 一方の視点からは弱みに見えたとしても、別の角度から見ればそれは立派な強みとして働くことがある 強みという視点を持って捉え直せば、それまで弱みとして気になっていた部分はほとんど気にならなくなることだってあるだろう。仮に一時的に「弱み」だと思われる場面があったとしても、それは今この瞬間だけのことであり、絶対的な評価ではない

そうした気づきを得た時こそ「今日が吉日」なのだ。その瞬間をきっかけに、小さな一歩からで十分だから、アップデートを始めていけばいい。完璧を目指す必要はない。ただ「伸びしろしかない」と信じ、一歩一歩進んでいけばいいのだ

まずは冷静に、今の自分や状況を事実に基づいて見直してみる。そこに感情的な反発や抵抗を加えず、素直に粛々と事実を受け止める。それが第一歩だ。「今」を否定するのではなく、相対的な視点から冷静にとらえ直し、次へ進むべき道を模索する。その未来にはまだ見えない領域が広がっているからこそ、不安が付きまとうこともあるだろう。しかし同時に、未知の未来には楽しみが潜んでいる可能性だってある。

人間はしばしば印象に引きずられやすい。印象の影響でポジティブな側面が消されてしまいがちだ。しかし、そのポジティブな側面に意識を向けることで、新たな可能性が見えてくるはずだ。そうやって動き出せるなら、賽の目は新たな方向へと転がり始める。そして、そこから生まれる変化こそが未来を切り開く力となる

よし今日も、、、

well being それではまた!!

今日という日も、その希望を胸に秘めながら、一歩ずつ進んでみる。未来はまだ創れる。未知の楽しみを期待しながら歩み続けよう。