評価に絶対はない、、、だから環境を変えるという選択で捲土重来を期せばいい

人は環境によりけり

人は環境によりけり、だと思う。
同時に、自分の意志で進むことができる我々は、自分で道を選べる存在でもある。

ただし厄介なのが「現状維持バイアス」だ。
何だかんだ理由を並べ、言い訳をつくり、今を動かないようにしてしまう。

今すぐ大きなケガがあるわけではないかもしれない。
動かなければ、急激に悪くもならないだろう。
しかし同時に、何も良くはならない

結果としてどうなるか、、、
気づけば周囲は先へ進み、自分だけが取り残される。
そしてその遅れは、チャンスの損失という形で静かに効いてくる。

それはまるで歯痛のようだ。
最初は我慢できる程度だが、確実に蝕んでくる。
気づいたときには、もう結構キツくなっている。

だから、次を求めて動けばいい。
勇気より、まず行動だ。


評価というものは、いつも相対だ。
今「ダメだ」と言われたからといって、それが未来永劫ダメだという意味ではない。
次の場所では、まったく違う評価を受けるかもしれない。

そこに絶対性などない。
人によりけり,,,環境によりけり,,,
評価は、評価する側の立場や状況に大きく左右されるので

もちろん、自分を磨き、建て付けることは大前提だ。
スキル、思考、姿勢――どれもサボっていい理由にはならない。

そのうえで、だ。
評価を求めて、自分で動くのだ


その歩みは、決して一人である必要はない。
業務委託という形で、気軽にコンサルやメンターを調達すればいい。
伴走者がいるだけで、視界は驚くほどクリアになる。

今日も、明日も、人生に少しずつ色どりを足していってほしい。
もしその心強い味方の一人に、自分がなれたら,,,
そんなことを思いながら、今日もこの仕事をしている。

well being それではまた!!

習慣は戦略になる──中2日の晩酌という意思決定

中2日の晩酌ペースは、経営戦略そのものだ

中2日の晩酌ペースを守ることは、単なる生活習慣ではない。
自分の中では、これは明確に経営戦略の一部になっている。

事業は感情や勢いだけでは続かない。
特に個人事業主やコンサルの仕事は、自分の思考品質=提供価値だ。
だからこそ、どう休み、どう緩め、どう戻すかを設計する必要がある。

意思決定の精度は「身体状態」に依存する

経営において最も重要なのは意思決定だ。
そしてこの意思決定は、当然ながら万全なコンディションでこそ精度が上がる

お酒は一時的に視野を広げることもあるが、
常態化すれば判断の粒度を粗くする。

・まぁいいか
・今じゃなくても
・深く考えなくていいか

こうした小さな判断の緩みが、事業では後々効いてくる。

中2日という間隔は、
緩めるが、鈍らせない
このバランスを保つための経営的な設計でもある。

パフォーマンスの安定は「再現性」が鍵

経営戦略とは、本来「再現性をつくること」だ。
一発の爆発よりも、安定して成果を出し続ける仕組みをつくる。

酒との付き合い方も、まったく同じ構造をしている。

毎日飲む → パフォーマンスが読めない
たまに我慢 → 反動が大きい

中2日ペースは、そのどちらでもない。
自分の調子を予測しやすく、次の日の集中力も読みやすい。

これは、
・打ち合わせ
・資料作成
・意思決定
・発信

あらゆる仕事の質を安定させるための土台になる。

「飲まない夜」は戦略思考の時間になる

飲まない夜があることで、思考は内側に向かう。
感情の処理、違和感の言語化、事業の微調整。

この時間は、かなり戦略的だ。

日中はどうしても「実行モード」になる。
だが、実行だけでは事業は良くならない。
どこを見直し、どこを捨て、どこを伸ばすかを考える時間が必要だ。

中2日ペースは、
戦略思考のための余白を、あらかじめ確保する設計でもある。

「今日ぐらいいい」と言われる組織は弱くなる

「今日ぐらいいいじゃん」
この言葉は、経営でも何度も耳にする。

・今期だけだから
・この案件だけだから
・今回は例外で

例外が続くと、ルールは意味を失う。
個人の生活習慣も、組織運営も、構造は同じだ。

外に説明できない決断は、だいたい中で歪みを生む。
だから自分には、自分に説明できるルールを持つ。

中2日の晩酌ペースは、
自分という組織をマネジメントするための規律だ。

経営者は、まず自分を経営する

会社を経営する前に、
プロジェクトを回す前に、
まず「自分」を経営できているか。

これは綺麗事ではなく、極めて現実的な問いだ。

思考が鈍れば、提案は浅くなる。
判断が遅れれば、機会を逃す。
感覚が緩めば、違和感に気づかなくなる。

中2日の晩酌ペースは、
自分の鋭さを管理するための戦略であり、
結果としてクライアントへの価値提供につながっていく。

小さな戦略が、長期の結果をつくる

派手な施策ではない。
数字にすると、誰も褒めてくれない。

それでも、
こうした小さな戦略の積み重ねが、
長くブレずに事業を続けるための基盤になる。

酒との距離を設計することは、
人生との距離を設計することでもある。

中2日の晩酌ペースは、
自分なりの経営哲学が、最も日常的な形で表れたものだ。

well being それではまた!!

2年越しのスマホ機種変更。価格重視から「体験」重視へ

2年ぶりにスマホの機種変更をした。
正直に言えば、これまでは「最低このくらいで十分だろう」という基準で、価格重視で選んできた。

完全独立したばかりの頃は、それでよかったと思っている。
固定費は極力抑えたいし、背伸びをする余裕もなかった。
「使えればいい」が正解だったフェーズだ。

ただ、あれから2年以上が経った。
状況も立場も、少しずつ変わってきた。

コンサルという仕事をしている以上、「最高」を知っておくことは必要だと思うようになった。
今この瞬間に必要か、いらないか、ではなく、一度体験しておくという意味でだ。

そんな考えから、今回は迷いなく“上”を選んだ。

eSIMの便利さと、現実的な壁

今回の機種変更で大きく変わったのが、SIMがカードではなくeSIM(電子)になったこと。
物理的な差し替えが不要で、これは確かに便利だ。

ただ、便利さと引き換えに、当然のようにやってくるのが
セキュリティを伴う再ログイン地獄

銀行、証券、各種サービス、SNS、業務系ツール…。
ほぼすべて、改めてログインし直す必要があった。

ここで改めて思い知らされる。

「その時その時に、ちゃんとメモしているか」
「それを、どこに保管しているか」

が、どれだけ重要かということを。

Evernoteへの不満と、ノート迷子問題

自分はずっとEvernoteを使っている。
慣れているし、情報も溜まっている。

ただ、最近どうにも検索が弱いと感じる場面が増えた。
確実に保存しているはずなのに、必要なときに出てこない。

今回も例外ではなく、
「あれ、どこに書いたっけ?」
を何度も繰り返した。

結局思うのは、
コピペが一瞬でできて、確実に引っかかるノートが欲しい、ということ。

Evernoteが悪いというより、
今の自分の使い方や求めるスピード感に、少し合わなくなってきているのかもしれない。

このあたりは、今回の機種変更をきっかけに、真剣に見直そうと思っている。

2時間で、すべて完了

なんだかんだで、初期設定と各種ログインを終えるまで約2時間。
集中して一気にやり切った。

終わってみれば、「面倒だった」というより、
「大事な棚卸しの時間だった」という感覚のほうが近い。

スマホもパソコンも、仕事道具であり生命線

スマホもパソコンも、ただのガジェットではない。
自分にとっては、仕事道具そのものであり、生命線だ。

だからこそ、今回の機種変更は「出費」ではなく「投資」だと思っている。
いい投資だった、と胸を張って言えるように、
これから徹底的に使い倒したい。

道具に使われるのではなく、
道具を使い切る側でいたい。

2年後、また機種変更をするとき。
「あの時、あれを選んでよかった」と言えていたらと思っている

well being それではまた!!

SNSは“意見”を集める装置ではなく、“空気”を増幅させる装置なのだろう

SNSは便利だ。
情報は早く、拡散力もある。
だが同時に、私はこの仕組みそのものに、強い違和感を覚えている。SNSは、本来「意見を並べる場」だったはずだ。
ところがいつの間にか、「意見の数」や「同調の可視化」が価値を持つ場に変わってしまった。

人は、内容よりも“賛同の多さ”を見る。
正しいかどうかよりも、“どちらが勢いを持っているか”を感じ取る。
結果として、そこに生まれるのは議論ではなく、空気だ。

特に怖いのは、同じ属性の人間が同じタイミングで同じ方向を向いたときだ。
経済人、専門家、著名人。
肩書きが並ぶほど、「これは正しいのだろう」という無言の圧が生まれる。

SNSのアルゴリズムは、それをさらに加速させる。
似た考えは集められ、反対意見は見えにくくなる。
結果、世界は単純化され、「賛成か反対か」「正しいか間違いか」しか残らなくなる。

しかし、現実はそんなに白黒ではない。

SNSでは、「迷い」や「留保」は評価されない。
「少し引っかかる」「どちらとも言えない」という態度は、
発信しづらく、共有されにくい。

だからこそ、発信はどんどん強くなる。
断定的になり、きれいな言葉が選ばれ、
「私は清く、正しい」という姿勢が前面に出る。

だが、私は思う。
清さや正しさを、ここまで強調しなければならない理由は何なのか、と。

本当に人を動かすのは、完璧な姿ではない。
迷いながら考える姿や、葛藤や、人間味のはずだ。
それが見えない発信が並ぶほど、どこか作られた匂いが強くなる。

SNSは「応援」も量産する。
しかもそれは、応援する側の気持ちより、
“沈黙していると怪しまれる空気”から生まれることも多い。

気づけば、
発信しない自由より、
発信しないことへの不安が勝ってしまう。

こうしてSNSは、
意見交換の場ではなく、
「踏み絵のような場所」になっていく。

私は、この構造そのものに警戒すべきだと思う。
誰が正しいか以前に、
私たちがどんな環境で考えさせられているのかを。

選ぶべきは、声の大きさではない。
並んだ肩書きでもない。
整いすぎたメッセージでもない。

少し立ち止まり、
「なぜ、ここまで一方向なのか」
「なぜ、違和感が表に出てこないのか」
そう自分に問いかける余白を持つことだ。

どうか、
SNSが作る“空気”ではなく、
自分の感覚を信じてほしい。

静かな判断こそ、
今いちばん守るべきものだと思う。

well being それではまた!!

首長という立場の、重さと矛盾について

地方都市の首長選挙が公示されるたびに、いつも考えさせられることがある。
それは「正しさ」と「人間らしさ」はどこまで両立できるのか、、、という問いだ。

行政のトップに立つ人間は、市全体のイメージを背負う存在だ。
一つひとつの行動が「個人」ではなく「自治体」として評価され、時には誤解され、拡大解釈される。
その厳しさは、民間企業の経営者とは根本的に違う。

経営者であれば、極論すれば結果が出ていれば一定の評価は得られる。
しかし行政執行者はそうはいかない。
結果だけでなく、「あり方」そのものが常に問われる。

だからこそ、行動の選択一つひとつに、説明がつかない余地を残すこと自体がリスクになる。
どれだけ本人に下心がなくても、第三者が見て首をかしげるような状況を作ってしまえば、それはもう「説明責任」の問題になる。

一方で、対立軸としてしばしば打ち出されるのが「清く正しく」という姿勢だ。
それ自体は否定されるものではないし、むしろ今の時代、強く求められている価値でもある。

ただ、正直に言えば、私は時々こうも思ってしまう。
――そんなに完璧にクリーンな人間は、本当に存在するのだろうか、、、と。

全部が全部、非の打ちどころなくて、揺らぎも矛盾もない、、、
そういう人物像は、どこか人間味を欠いて見えてしまうことがある。
それで、複雑で感情を持った市民を相手に、柔らかく血の通った市政運営ができるのだろうか。

「正しさ」を前面に出すことと、「人の弱さ」を理解すること。
この二つは、決して相反するものではないはずだが、実際には微妙なバランスの上に成り立っている。

完璧さを演じ続けることも、また大きな負荷を本人に強いる訳で、、、
そしてそれは、いつか無理が来る。

首長という仕事は、本当に難しい。
清廉さも必要だし、人を思いやる感覚も求められる。
どちらか一方だけでは足りない。

選挙という非日常の中で、つい「善か悪か」「白か黒か」で見てしまいがちだが、
本当はその間のグレーゾーンにこそ、人間がいて、政治があるのではないか。

そんなことを、選挙のたびに考えさせられる

well being それではまた!!