「AかBか」ではなく「AもBも」――桐蔭学園の勝利が象徴する時代

高校ラグビーの決勝戦が行われ、桐蔭学園が激闘の末に勝利した。
3連覇を果たす圧倒的な強さ。結果だけを見れば「常勝軍団」という言葉で片づけられてしまうかもしれない。

しかし、桐蔭学園の本当の凄さは、グラウンドの外にあるように思う。

昨年は慶應義塾大学へ進学する選手も多かったと聞く。
競技としての高さと、学問への向き合い方、、、
まさに文武両道を体現しているチームであり、素直に「素晴らしい」と言いたくなる状況だ。

かつては、「強豪校に行けば勉強は二の次」「勝つためには何かを犠牲にする」
そんなのが当たり前だった。

だが、時代は確実に変わってきている。

象徴的なのは、大谷翔平選手の二刀流だろう。
投手か、打者か、、、
どちらかを選べ、という問いに対して、「どちらもやる」という選択をし、それを世界最高水準で成立させてしまった。

今の時代は、「やりたいことは全部やる」というスタイルが、流行りなのかもしれない。
そしてそれは、決して合理性を失ったわがままではない。

何かを選ぶために、何かを捨てる。
この発想は、一見すると覚悟があるようで、実はマイナスを内包している。

本当は武器になるはずの要素を切り落とすことで、
インパクトはかえって薄まり、可能性の幅も狭くなる。

むしろ、どちらも引き連れて進むことで、バランスが強化される。
相互に補完し合い、全体としての強度が上がっていく。

桐蔭学園のラグビーと進学実績、
大谷翔平選手の投打二刀流、
そして経営の世界で言えば、
「理想か現実か」「想いか数字か」という二項対立も同じだ。

AかBか、という問い自体が、もう古いのかもしれない。

A and B を許容し、応援し、成立させる土壌があるなら、
日本の教育も、スポーツも、そして文化も、まだまだ未来がある。

何かを諦めた先に成長があるのではない。
全部を抱えたまま前に進む工夫を続けること。
その積み重ねが、これからの「強さ」をつくっていくのだと思う。

well being それではまた!!

2025年収益確定──数字が「経営判断」に変わった瞬間

2025年の収益が確定した。
最終日に計上した売上が効いて、12月も月次目標に到達したことが、感覚ではなく数字で確認できた。

この「確認できた」という状態が、実は経営にとって一番重要だ。

売上が立ったかどうかではなく、
どの構造で、どこまで再現性を持って積み上げられたか
その全体像が、年次の数字としてようやく見える位置に来た。

課税事業者への歩み、、、法人化への歩み、、、
それらは「いつか」の話ではなく、
財務的に成立するかどうかという判断フェーズに入ってきている。

ただし、次のフェーズに行くには、もう一回りのスケールが必要だ。
売上そのものというより、稼働量と意思決定の耐久性の問題である。

だからこそ、身体のメンテナンスは経営課題になる訳で、、、
だから膝を直さないと仕方がない、というのは甘えではなく、
個人事業という組織構造上、極めて合理的な判断だ。

そして、続けて確定申告を“送信直前”まで進めてみた。

これまではシステムに入力して終わりにしていて、、、
結果が正しく反映されている“前提”で進めてきた。

今回は違う。
出力された書類を読み込み、
数字の意味を経営言語に翻訳できる状態まで落とし込んだ。

ここで改めて気づいたのは、
「苦手」「分からないかも」という思い込みが、
どれだけ経営判断の精度を下げていたか、ということだ。

直視しない,,,
流し見る,,,
分かったフリをする,,,

そうして出来上がる決算書は、概ね「薄い」。
結果、節税になる余地、キャッシュを安全に残す余地、
将来への布石になる判断を、自分で捨ててしまっていた。

今、ちゃんと向き合えているのは、場数だと思う。
クライアントの財務を見る立場で、
「経営者はここを見るべきだ」と言ってきた経験が、
ようやく自分にも返ってきた。

2026年に向けて、固定資産、減価償却、借入金の繰り越しまで整理し、
当年度の経営概要をきれいに締めた。

これは単なる事務作業ではない。
来期の意思決定を速く、強くするための下準備だ。

実質、今年の営業日3日目。
この段階でここまで整えられているなら、
悪くないスタートだと言っていい。

計画なくして実行なし。
逆に言えば、計画を描いた時点で半分は終わっている。

ここからは、数字を使って予算を描く。
まずは絵にする。
描きもしない未来が、勝手に実現することはない。

続きはまた!!

睡眠の質を高める筋トレ習慣|加減せず動くメリット

しっかり動けば、やっぱり眠れる

昨日、一昨日と筋トレの強度を高めてみたら、改めて実感したことがある。
「頭ではなく、カラダをしっかり使うと、その分カラダは芯から疲れを取ろうとする」ということだ。

何となく疲れているからといって手を緩めると、睡眠も「何となく」になる。
でも、もう一段強度を上げてみると、ぐっすり眠れる。これは間違いない。

タイパの罠と加減の癖

最近は「タイパ(タイムパフォーマンス)」を意識しすぎて、
「ここまででいいか…」と加減する癖がついてしまっているのかもしれない。
でも、その加減が結局、自分の質を下げている気がする。

全部刈り取る覚悟

思い切って、やるべきことを全部刈り取るようにやってみる。
そうしたほうが、結局は深くなれる。
睡眠も、気持ちも、仕事の集中力も。
メリットがあることを、ようやく想い始めた。

まとめると
「疲れているから軽くやる」ではなく、
「しっかり動いて、しっかり休む」
このシンプルなサイクルが、やっぱり一番強い

よし今日もまた明日もまただ

well being それではまた!!

大学ラグビー準決勝|明治が京産大に圧勝!ノーサイド精神と批判文化を考える

明治、京産大に圧勝。そして考えさせられる「批判」と「リスペクト」

大学ラグビー準決勝、我が明治は京産大に圧勝した。試合そのものは見事だったが、試合後に感じたのは別のことだ。

中継ではリプレーが流れ、レフリーのジャッジに対してネット記事では「後出しジャンケン」的な批判が募る。だが、その場にいない人間が、しかもほぼ関係ない立場で、特定の人物や判定をああだこうだ言う現象は一体何なのか。

レフリーは面を割って、そこに登場し、すべてを引き受けてジャッジしている。改善提案があるのはいい。しかし、ヘイトは何の目的か、、、しかもマスコミが部数狙いで煽るのは何なのか。

言いようがない怒りがあるが、もうただただ情けないとしか言えない。そこにはラグビーや選手、関係者へのリスペクトは全くない。ただのワイワイガヤガヤだ。そんなものは全く要らない。

一方で、試合後に京産大のサポーターから「明治さん良かったですね。決勝も頑張ってください」と声をかけていただいた。これで天理さん、早稲田さん、そして京産大さんと3校目。驚くべき日常の風景だ。

ここにあるのは、ラグビーが育んできたノーサイド精神だ。試合が終われば敵味方はない。互いを称え、次を応援する。この文化は、選手だけでなく観客にも息づいている。だからこそ、外野のワイワイガヤガヤは本当にもったいない。ラグビーの本質は、勝敗を超えたリスペクトにある。そこにこそ価値がある。

決勝に向けて、明治はさらに挑む。そして願うのは、ピッチの外でもノーサイド精神が広がることだ。

well being それではまた!!

「大学選手権準決勝で消えた“校歌斉唱”に思う、大学ラグビーの未来」

新春恒例の大学ラグビー選手権準決勝を観戦してきた。毎年楽しみにしているこの舞台だが、今年は一つ大きな違和感があった。
あれ、校歌斉唱がない…。

だって校歌斉唱はOBにとって特別な瞬間だ。母校の誇りを胸に、選手と一緒に声を合わせる。そんな時間がなくなってしまったのは、正直とても残念だった。

なぜなくしているのか?少し考えてみた。

校歌斉唱がなくなった理由を考える

まず、そもそも校歌斉唱をやっている競技は少ない。大学ラグビーはその数少ない例だった。
そして、校歌斉唱は出身大学者には刺さるが、関係ない人にはまるで響かない。ここが最大の理由ではないかと思う。

つまり、「母校愛を持つ人だけが楽しめる演出」になってしまっていたのだ。

大学ラグビーのポテンシャルと課題

学生競技としての面白さは間違いなくある。なのに、母校関係者だけで盛り上がる自己満足に留まってしまっているのは勿体ないしこれが人気減少や盛り上げに水を差してしまっているのではと危惧する
事実、今年の観客数は約3万人程度。驚くほど少なくなっている

高校野球を思い出してほしい。どこの高校、どこの県であっても、あのひたむきさに惹かれて応援する人がいる。大学ラグビーにもそのポテンシャルはあるはずだ。

だからこそ、「自分の大学が盛り上がればいい」という発想から抜け出さないと、競技全体が衰退してしまうと思う。

まとめ

校歌斉唱がなくなったのは寂しい。でも、それをきっかけに考えた。
大学ラグビーはもっと広く、多くの人に愛される競技になれる。
そのためには、母校愛だけに頼らない仕掛けが必要だ。

あなたはどう思う?校歌斉唱、復活すべき?それとも新しい魅力を作るべき?