潔さの美学──101回目の早明戦が示した勝敗を超える価値

人生の作法をみた

国立競技場に入った瞬間、空気が薄く震えていた。冬の透明な冷気を、数万人の体温と期待がじわりと押し上げる。早稲田と明治──101回目の早明戦。勝てば優勝の大一番。選手たちは、静けさの奥に熱を宿したまま、自分の持ち場へ歩いてゆく。視線はまっすぐ、肩の角度に迷いがない。たぶんその時点で、勝負はもう始まっている。

大学ラグビーには、ビデオ判定がない。レフリーのジャッジが絶対で、時間は戻らない。人の判断に委ねるという競技の宿命が、緊張と美しさを同時に生む。昨日も、明治のトライかと思われた場面が笛一つで取り消された。あの一瞬、明治の選手の胸に「おかしい」という言葉が立ち上がったはずだ。しかし、彼らはそこに留まらなかった。自分が影響できない領域を見切り、次に走る。顔を上げ、隊列を整え、ボールの落下点へ駆ける。あの切り替えの速さこそ、スポーツマンシップの核だと思う。

人はしばしば、影響できないことに囚われる。結果、他人のミスや運、不遇に自分の時間を差し出してしまう。だが大学ラグビーは、それを許さない競技だ。刻一刻と局面が変わり、判断の遅れは、次の攻防に容赦なく返ってくる。だから選手は、影響できるものとできないものを即座に仕分け、前者に全てを投じる。後者は、敬意をもって手放す。潔さは、ただの我慢ではない。選択の技術であり、集中の作法だ。

レフリーも人間だ。見えない角度があり、迷いもある。それでも彼らは、競技の秩序を背負い、覚悟を持って笛を吹く。昨日のジャッジも、たぶん最善を尽くした結果だ。試合後、クレームめいた声がどこからも立たないことに、胸が熱くなった。敗者にも勝者にも、悔しさや誇りの温度差はある。それでも互いの努力と緊張を尊重する文化が、大学ラグビーには根づいている。ここに、勝敗を超える価値がある。

「人事を尽くして天命を待つ」とは、努力を正当化する格言ではない。影響できる領域を徹底し、最後に結果を手放すという、精神の姿勢だ。昨日の早明戦は、その作法を目の前で示してくれた。
— レフリーの笛に揺れない。
— プレイの連続性の中で、感情を捌く。
— 次の瞬間に資源を全投入する。
この連続こそが、ゲームの質を押し上げ、勝負の美をつくる。

切り替えは才能ではない。鍛えられる。方法は単純だが難しい。
第一に、境界線を持つこと。自分が影響できる具体は何か──走る、当たる、支える、呼ぶ、蹴る。境界線の外にあるもの──風、笛、運、過去──を明瞭にする。
第二に、儀式を持つこと。深呼吸一つ、視線のリセット、声の合図。「次へ」を身体で宣言する。宣言が先、感情は後から追いつく。
第三に、敬意を持つこと。相手に、仲間に、そして自分に。敬意は、過剰な感情の暴走を静める。どれほどギリギリでも、敬意は判断を支える最後の地盤になる。

昨日のゲームの最中、幾度か「勝負が動いた」と感じた場面があった。戦術の妙というより、精神の針が揺れた瞬間だ。ミスの直後に、誰かが一歩前へ出る。走る速度は同じでも、意味が違う。あの一歩は、「過去」ではなく「次」に重心を移す意思の証明だ。こういう一歩が連鎖すると、チームの時間が前へ進み始める。逆に、過去へ重心が留まると、チームの時間は縮む。勝敗は、戦術と技術と体力に依存する。だがその前に、時間の扱い方にもう一段、目に見えない差が生まれる。

スポーツは人間の縮図だと言われるが、大学ラグビーには「未完成の気品」がある。プロの洗練にはない、揺らぎと伸びしろの美しさだ。だからこそ、レフリーの絶対性も、選手の不器用な切り替えも、その場の空気も、すべて含めて一つの物語になる。昨日の早明戦もそうだった。勝敗の重みを抱えながら、誰もが潔さを選んでいた。潔さは、敗者にも勝者にも似合う。そこに、大学ラグビーの普遍がある。

ゲームが終わる。歓声が波になって遠ざかり、芝の匂いが急に近づく。スコアは確定し、写真は保存される。だが、余韻は保存できない。余韻は、その場にいた者の胸の内で発酵する。昨日の余韻は、こんな言葉に落ち着いた。
「影響できるところだけをやる。勝負は天命に任せる。だから前へ。」
簡単で、たぶん一生難しい。何にしてもこんな素晴らしき大学ラグビー、、、また好きになった。

well being それではまた!!