前橋市長辞任に学ぶ、公人の責任と潔さ

小川晶前橋市長の辞任に想う。

前橋市が「ラブホ」が枕詞になってしまった状況は、都市のブランドにとって大きな痛手であり、このイメージの損失はしばらく尾を引くだろう。

市長という立場は単なる行政のトップではなく、地域の象徴であり、都市の信頼を背負う存在だ。その意味で今回の事態は、個人の問題にとどまらず、前橋市全体の価値に影響を与えるものだった。

お相手は妻帯者であり、何もなかったとしても「だったらセクハラ」となる。どちらにしても「仕事はきちんとやっているので問題ない」という論理は通用しない。公人には職務遂行能力以上の「あり方」が問われるからだ。今回、擁護派からは「リーク説」や「仕事はきちんとしているのにこれぐらいで…」という声が上がったが、その論調こそが批判を招き彼女を袋小路に追いやったのだ。

公人の評価は「仕事の成果」だけでなく「信頼と象徴性」に基づくものであり、市長という立場は地域社会の規範を体現する存在だ。報酬減額など彼女なりの責任の取り方はおこなったが、幕引きを長引かせたことで事態はさらに悪化した。理屈を重ねるより、早期に辞職・出直しを決断していればここまでのダメージは避けられたはずだ。

支援者から「潔い決断」を促す声がもっと強くあれば結果は違ったかもしれない。公人に求められるのは説明よりも行動だ。

しかしこの件は「万死に値する話」ではない。人は誰でもやり直す権利がある。むしろ失敗から学び、違う立場で捲土重来を期して欲しい。

そして匿名で過剰に叩く輩に言いたい。「そこまで言う権利はない。何様だオマエ」と。

政治家という職業だというだけでただの人間であるのはオマエと同じだろうがと。

公人の失敗は重いが、再起の道を閉ざすべきではない。

今回の辞任劇は地方都市における「公人の責任」と「潔さ」の意味を改めて問いかけるものだった。信頼を失うのは一瞬だが、取り戻すには時間がかかる。

やり直しの機会は誰にでもある。前橋市の未来のためにも、そして本人のためにも、再起を期待したい。

well being それではまた!!

先送り癖を断ち切る!個人事業主が動き出すための一歩

確かに、期限はまだ先かもしれない。
でも、先送りするということは、後で自分にもっと重い負荷をかけるということだ。新しいことに挑むとき、今やるとストレスがかかる。それが怖くて、心理がブレーキを踏む。分かる、、、誰だってそうだ。

しかし、個人事業主には「誰かがやってくれる」なんて甘えはない
自分で決めて、自分で動くしかない。
本当はどうしなくてはいけないか、分かっている。ごまかせない。
先送りは歯痛のように、ジワジワと心にしみてくる
何となく、いつも背中にまとわりついて離れない。

疲れたココロを起こすには、体を起こすしかない。
痛みは治療して、基本的に動ける状態にしておく。
人間は動物だ。動いて、形を作っていく生き物だ。
動かないでモヤモヤしていると、体から硬くなる。
それを今日、再認識した。

だから、今日は思いっきり動く日にする。
「何もしない」以外なら、1mmの動きでもいい。
その1mmが、止まっている自分を超えるから。
まずは行動だ。未来は、今この瞬間の選択で決まる。

あなたも、先送りしていることがあるなら、今日一緒に動こう
完璧じゃなくていい。小さな一歩でいい。
その一歩が、未来を変えるから。

👉 今日、あなたが動く一歩は何ですか?コメントで教えてください。

well being それではまた!!

やりたいで進む力。受験を迎える娘に学ぶ挑戦の価値

娘へ。今、心から伝えたいこと

娘が受験の最後の追い込みに入っている。遠くから見守るしかない。でも、その必死さ、その熱、その息づかいが、離れていても胸に響いてくる。
自分を見つけて、自分のやりたい方向に進むと、人はこんなにも強くなるのか――そう気づかされている。

「やれ」じゃ進まない。「やりたい」で進むんだ。損得なんて関係ない。

ただ前へ、ただ突っ込む。その姿は、まぶしくて、涙が出るほど美しい


結果?もちろん出ればいい。でも、そこが問題じゃない。どうやったか、そのプロセスは財産になり必ずココロやカラダに残る。それがあれば、また挑戦できる

だから今は、とにかく熱く、熱くやり切ってほしい。何でもやってほしい。

自分を信じて。

親は出せるものを全部出す。

あの子の親になれてよかったと、心の底から思う。

決して決して立派な親じゃなかった。

でも、親らしい感情を持たせてくれた。ありがとう。
応援している、いつも。そしてこれからも。頑張れ。心から

well being それではまた!!

「やるかやらないか」だけに集中せよ|習慣化で未来を変える

やるか、やらないか。それがすべてだ

「出来るか出来ないかではなく、やるかやらないかである」
この言葉は、何度も耳にしてきた。だが、今ほどその意味を噛みしめている瞬間はない。

人は、始める前に「できるかどうか」を測ろうとする。
経験、能力、環境、時間――そのすべてを天秤にかけて、可能性を計算する。
だが、その計算に意味はあるだろうか?
未来は、計算の確からしさではなく行動の質量によってのみ形づくられる。
やると決めて動いた瞬間から、世界はわずかに変わり始めるのだ。

やり続ければ、大抵のことは到達できる。
もちろん、すべてが思い通りに進むわけではない。
だが、設計し、試し、修正しながら進む過程こそが、次の扉を開く鍵になる。
「やるかどうか」を決めるのは、やる前の印象でも、少しやってみた後の感覚でもない。
決めるのは、今この瞬間だ。

だから、迷いを捨ててキックする。
習慣になるまで、ただ続けることに集中する。
継続が成り立てば、たとえ今回の挑戦がうまくいかなくても、学びは残る。
その学びは、次の挑戦を支える土台になる。
諦め癖は、一度許せば何度でも戻ってくる。
だから、やるのだ。

やることは、誰にでも与えられた権利だ。
その権利を使うかどうか――それが、人生を分ける分岐点になる。
今日、あなたはどちらを選ぶだろうか?

well being それではまた!!

潔さの美学──101回目の早明戦が示した勝敗を超える価値

人生の作法をみた

国立競技場に入った瞬間、空気が薄く震えていた。冬の透明な冷気を、数万人の体温と期待がじわりと押し上げる。早稲田と明治──101回目の早明戦。勝てば優勝の大一番。選手たちは、静けさの奥に熱を宿したまま、自分の持ち場へ歩いてゆく。視線はまっすぐ、肩の角度に迷いがない。たぶんその時点で、勝負はもう始まっている。

大学ラグビーには、ビデオ判定がない。レフリーのジャッジが絶対で、時間は戻らない。人の判断に委ねるという競技の宿命が、緊張と美しさを同時に生む。昨日も、明治のトライかと思われた場面が笛一つで取り消された。あの一瞬、明治の選手の胸に「おかしい」という言葉が立ち上がったはずだ。しかし、彼らはそこに留まらなかった。自分が影響できない領域を見切り、次に走る。顔を上げ、隊列を整え、ボールの落下点へ駆ける。あの切り替えの速さこそ、スポーツマンシップの核だと思う。

人はしばしば、影響できないことに囚われる。結果、他人のミスや運、不遇に自分の時間を差し出してしまう。だが大学ラグビーは、それを許さない競技だ。刻一刻と局面が変わり、判断の遅れは、次の攻防に容赦なく返ってくる。だから選手は、影響できるものとできないものを即座に仕分け、前者に全てを投じる。後者は、敬意をもって手放す。潔さは、ただの我慢ではない。選択の技術であり、集中の作法だ。

レフリーも人間だ。見えない角度があり、迷いもある。それでも彼らは、競技の秩序を背負い、覚悟を持って笛を吹く。昨日のジャッジも、たぶん最善を尽くした結果だ。試合後、クレームめいた声がどこからも立たないことに、胸が熱くなった。敗者にも勝者にも、悔しさや誇りの温度差はある。それでも互いの努力と緊張を尊重する文化が、大学ラグビーには根づいている。ここに、勝敗を超える価値がある。

「人事を尽くして天命を待つ」とは、努力を正当化する格言ではない。影響できる領域を徹底し、最後に結果を手放すという、精神の姿勢だ。昨日の早明戦は、その作法を目の前で示してくれた。
— レフリーの笛に揺れない。
— プレイの連続性の中で、感情を捌く。
— 次の瞬間に資源を全投入する。
この連続こそが、ゲームの質を押し上げ、勝負の美をつくる。

切り替えは才能ではない。鍛えられる。方法は単純だが難しい。
第一に、境界線を持つこと。自分が影響できる具体は何か──走る、当たる、支える、呼ぶ、蹴る。境界線の外にあるもの──風、笛、運、過去──を明瞭にする。
第二に、儀式を持つこと。深呼吸一つ、視線のリセット、声の合図。「次へ」を身体で宣言する。宣言が先、感情は後から追いつく。
第三に、敬意を持つこと。相手に、仲間に、そして自分に。敬意は、過剰な感情の暴走を静める。どれほどギリギリでも、敬意は判断を支える最後の地盤になる。

昨日のゲームの最中、幾度か「勝負が動いた」と感じた場面があった。戦術の妙というより、精神の針が揺れた瞬間だ。ミスの直後に、誰かが一歩前へ出る。走る速度は同じでも、意味が違う。あの一歩は、「過去」ではなく「次」に重心を移す意思の証明だ。こういう一歩が連鎖すると、チームの時間が前へ進み始める。逆に、過去へ重心が留まると、チームの時間は縮む。勝敗は、戦術と技術と体力に依存する。だがその前に、時間の扱い方にもう一段、目に見えない差が生まれる。

スポーツは人間の縮図だと言われるが、大学ラグビーには「未完成の気品」がある。プロの洗練にはない、揺らぎと伸びしろの美しさだ。だからこそ、レフリーの絶対性も、選手の不器用な切り替えも、その場の空気も、すべて含めて一つの物語になる。昨日の早明戦もそうだった。勝敗の重みを抱えながら、誰もが潔さを選んでいた。潔さは、敗者にも勝者にも似合う。そこに、大学ラグビーの普遍がある。

ゲームが終わる。歓声が波になって遠ざかり、芝の匂いが急に近づく。スコアは確定し、写真は保存される。だが、余韻は保存できない。余韻は、その場にいた者の胸の内で発酵する。昨日の余韻は、こんな言葉に落ち着いた。
「影響できるところだけをやる。勝負は天命に任せる。だから前へ。」
簡単で、たぶん一生難しい。何にしてもこんな素晴らしき大学ラグビー、、、また好きになった。

well being それではまた!!