応えてくれない世界と、それでも進む自分

今を否定しないということ

どうにも、心の奥にざわつきと引っ掛かりがある。
セミナーの集客は伸び悩み、スポットコンサルも手応えが薄い。
勉強も、正直、重たい。
何かを生み出そうとする時に訪れる、これらの静かな痛み,,,
それが、今の自分を包んでいる。

思うように進まない。
差し出した手に、世界が応えてくれない。
焦りが募る。苛立ちが積もる。
けれど、すべてがそうなのか?と、ふと問い直してみる。

ゴルフは好調だ。
そして、頭痛のタネも、向き合っているからこそ現れているモノ,,,
逃げていない証なのだ
そうだ、状況は進んでいる。
ただ、まだ見ぬ領域に足を踏み入れ、戸惑っているだけなのだ。

決めつける必要はない。
「うまくいっていない」と断じる前に、行動できているという事実に目を向ける。
その事実は、静かに語りかけてくる。
今を否定しないこと。
それが、次の一歩を踏み出すための、確かな足場になる

well beingそれではまた!!

案件のない時間に、見えてくるもの

積み重ねる静かな時間

しかし案件が動かない、、、
気づけば、もう一か月が過ぎた。
焦りがないわけではない。けれど、これは自分の努力が足りないからではない。
そもそも、案件がなければ、動きようがない。
そういう時期なのだと思うしかない。

無理に抗っても、風は吹かない。
ならば、今の自分にできることは何か、、、
それは、静かに、穏やかに、今を積み上げておくことだ。

ちょうど、妻が流行り病にかかった。
不思議なもので、こういうことも重なる。
「今は動くな」と、何かに言われているような気がする。

本を読み、、、勉強をして、、、庭を整える。
派手さはないが、やることはたくさんある。
それが自分の輪郭を、少しずつ、丁寧に描き直していくような時間になっている

案件が再び動き出すその時に、
慌てず、迷わず、すっとその流れに乗れるように。
今はそのための準備期間、、、
静けさの中に身を置き、心を整えておきたい

風が吹くまで、待つ。
ただ待つのではなく、風を迎える準備をしておく。
それが、今の自分にできる、唯一のことだ

well being それではまた!!

煩わしさの中にあった、愛のカタチ

静けさの中で、娘の自立を想う

娘が家を出て、やがて一か月。
日々の暮らしの中で、ふとした瞬間にその不在を感じる。
いつも手の届くところにいた存在が、今は遠くにいる。
それだけで、心にぽっかりと穴が空いたような感覚になる。

けれど、それは彼女が自分の足で立ち、自分の意思で歩き始めた証でもある。
これまで、いろいろなことがあっても、留まることしかできなかった彼女が、
今回は違った。
迷いながらも、自分の選択を信じて動いた。
その一歩を、親としては喜んでやらなければならないのだろう。
寂しさよりも、誇らしさを優先できるように。

娘がいなくなって、家の中は静かになった。
妻と二人の時間は、穏やかで、どこか懐かしい。
妻とは素のままでいられる関係だ。
でも、娘に対しては、やはり「親として」「異性として」
どこか気を使い、格好をつけていた自分がいたことに気づかされる。

食事のとき、「何食べたい?」と聞いたり、
休日には「どこか行く?」と誘ったり、
そんな些細なやりとりの中に、どれだけ自分が気を配っていたか。
時にはそれが煩わしく感じることもあった。
でも今となっては、その“煩わしさ”こそが、かけがえのない時間だったのだと痛感する。

人は、失って初めて気づくことがある。
そしてその気づきは、次に誰かを迎える準備になる。
娘がまた戻ってくる日もあるだろう。
そのとき、変わらずに、いや、少しだけ深くなった自分で迎えられるように。
今は静けさの中で、心を整えておきたい。

well being それではまた!!

意思がある限り、道は拓ける

小僧のままで、スコア80──意思が拓く道

今日のゴルフで、久々に「39・41=80」というスコアを出せた。
スコアはただの記録かもしれない。けれどこのスコアまでいくと、、、自分の中では確かな手応えがあった。
ウッドもアイアンもパターも、すべてにおいて「自分の意思」で打てたと感じられたことが、何よりも嬉しい。
クラブを振るのではなく、自分の意志を通して球を運ぶ。そこに技術以上の意味が宿る。

55歳。
世間では「もう若くない」と言われる年齢かもしれない。
でも、今日のラウンドは、そんな常識を軽やかに超えていく感覚があった。
年齢はただの数字。
やり直すことも、挑戦することも、何歳からでもできる。
それを証明できたことが、スコア以上に価値のある収穫だった。

人はよく「知らないから」「やったことがないから」と言って、道を閉ざしてしまう。
でも、それは本当に“知らない”のではなく、“知ろうとしない”だけかもしれない。
「こういうものだ」と達観してしまった瞬間、思考は止まり、老害の芽が育ち始める。
若い人の可能性を素直に認め、「若いっていいな」と思える柔らかさを持ちながら、
自分自身も「まだまだ勝負できる」と信じていたい。
いつまでも“小僧”であることを、誇りに思えるように。

そして、結果が出ると、もっともっとと内側から興味が湧いてくる。
それは欲ではなく、純粋な好奇心。
その好奇心こそが、人生の流れを加速させる原動力になる。
意思がある限り、道は拓ける。
そしてその道は、年齢に関係なく、いつだって新しく始められるのだ

well beingそれではまた!!

記憶の継承と関心の力──原爆投下から80年を生きる私たちへ

原爆投下から80年——記憶と関心が未来を守る

広島と長崎に原子爆弾が投下されたあの日から、80年の歳月が流れた。あの空が赤く染まり、街が焼け、命が奪われた瞬間を、今も胸に刻み続ける人々がいる。しかしその人々の平均年齢は85歳を超え、語り部の声は年々小さくなっている。やがて、被爆者ゼロの時代が訪れる。

それは、記憶の終わりではない。むしろ、記憶の継承が本格的に試される始まりだ。私たちは、最後の原爆投下国となるべく、この忌まわしい記憶をどう次の世代に手渡していくのか。それは単なる歴史教育ではなく、人間としての倫理と責任の問題だ。

いま、世界はかつてないほど複雑に絡み合っている。ウクライナ侵攻によって穀物の流通が滞り、遠い国の戦争が私たちの食卓に影響を及ぼす。温暖化による異常気象も、もはや「どこかの話」ではない。洪水、干ばつ、猛暑——それらは日常の風景となりつつある。

このような時代において、私たちがまず始めるべきことは「関心を持つこと」だと思う。関心は、無関心という名の沈黙を破る力になる。知らなければ、行動は生まれない。知っているからこそ、心が動き、行動が生まれる。

威嚇し、殺し、奪って得た利益で、世界が良くなるはずがない。それは歴史が何度も証明してきた。共存共栄——この言葉は、理想ではなく、現実を生き抜くための唯一の道だ。互いを理解し、尊重し、支え合うこと。それが、戦争を防ぎ、地球を守り、未来を築く礎になる。

80年という節目に、私たちは過去を振り返るだけでなく、未来を見据えなければならない。記憶を継承するとは、単に語り継ぐことではない。それは、関心を持ち続けること。そしてその関心が、平和への抑止力となり、次の世代の行動へと繋がっていく。

この世界に生きるすべての人が、過去の痛みを知り、今の課題に目を向け、未来の責任を担う——そんな社会を目指したい。

well being それではまた!!