大学ラグビー準決勝|明治が京産大に圧勝!ノーサイド精神と批判文化を考える

明治、京産大に圧勝。そして考えさせられる「批判」と「リスペクト」

大学ラグビー準決勝、我が明治は京産大に圧勝した。試合そのものは見事だったが、試合後に感じたのは別のことだ。

中継ではリプレーが流れ、レフリーのジャッジに対してネット記事では「後出しジャンケン」的な批判が募る。だが、その場にいない人間が、しかもほぼ関係ない立場で、特定の人物や判定をああだこうだ言う現象は一体何なのか。

レフリーは面を割って、そこに登場し、すべてを引き受けてジャッジしている。改善提案があるのはいい。しかし、ヘイトは何の目的か、、、しかもマスコミが部数狙いで煽るのは何なのか。

言いようがない怒りがあるが、もうただただ情けないとしか言えない。そこにはラグビーや選手、関係者へのリスペクトは全くない。ただのワイワイガヤガヤだ。そんなものは全く要らない。

一方で、試合後に京産大のサポーターから「明治さん良かったですね。決勝も頑張ってください」と声をかけていただいた。これで天理さん、早稲田さん、そして京産大さんと3校目。驚くべき日常の風景だ。

ここにあるのは、ラグビーが育んできたノーサイド精神だ。試合が終われば敵味方はない。互いを称え、次を応援する。この文化は、選手だけでなく観客にも息づいている。だからこそ、外野のワイワイガヤガヤは本当にもったいない。ラグビーの本質は、勝敗を超えたリスペクトにある。そこにこそ価値がある。

決勝に向けて、明治はさらに挑む。そして願うのは、ピッチの外でもノーサイド精神が広がることだ。

well being それではまた!!

「大学選手権準決勝で消えた“校歌斉唱”に思う、大学ラグビーの未来」

新春恒例の大学ラグビー選手権準決勝を観戦してきた。毎年楽しみにしているこの舞台だが、今年は一つ大きな違和感があった。
あれ、校歌斉唱がない…。

だって校歌斉唱はOBにとって特別な瞬間だ。母校の誇りを胸に、選手と一緒に声を合わせる。そんな時間がなくなってしまったのは、正直とても残念だった。

なぜなくしているのか?少し考えてみた。

校歌斉唱がなくなった理由を考える

まず、そもそも校歌斉唱をやっている競技は少ない。大学ラグビーはその数少ない例だった。
そして、校歌斉唱は出身大学者には刺さるが、関係ない人にはまるで響かない。ここが最大の理由ではないかと思う。

つまり、「母校愛を持つ人だけが楽しめる演出」になってしまっていたのだ。

大学ラグビーのポテンシャルと課題

学生競技としての面白さは間違いなくある。なのに、母校関係者だけで盛り上がる自己満足に留まってしまっているのは勿体ないしこれが人気減少や盛り上げに水を差してしまっているのではと危惧する
事実、今年の観客数は約3万人程度。驚くほど少なくなっている

高校野球を思い出してほしい。どこの高校、どこの県であっても、あのひたむきさに惹かれて応援する人がいる。大学ラグビーにもそのポテンシャルはあるはずだ。

だからこそ、「自分の大学が盛り上がればいい」という発想から抜け出さないと、競技全体が衰退してしまうと思う。

まとめ

校歌斉唱がなくなったのは寂しい。でも、それをきっかけに考えた。
大学ラグビーはもっと広く、多くの人に愛される競技になれる。
そのためには、母校愛だけに頼らない仕掛けが必要だ。

あなたはどう思う?校歌斉唱、復活すべき?それとも新しい魅力を作るべき?

新年恒例の皇居一般参賀|並んででも拝みたい理由と今年の目標

新年恒例・一般参賀に出向いてみる

今年も新年恒例の一般参賀へ。朝8時から並び始めたものの、やっぱり三時間コースになってしまった。寒さと人の波に耐えながらも、皇居に足を運ぶ理由は一つ――365日24時間、国民の安寧を願ってくださっている皇室の皆様の神々しさを拝まずにはいられないからだ。

後光を指すような美しさは、なぜあんなにも醸し出されるのだろうか。きっと、100%純粋な心で「平和」という誰もが欲しがるベースを創り続けているからなのかもしれない。日本国民は、そのベースを皇室が築いてくださっていることを、この機会に実感できる。だとすれば、我々は安心して進めばいい。進んだプロセスは間違いなかったと言えるように、今年も一歩ずつ進みたい。

ただ、現実は厳しい。足を引きずりながらの坂や階段は本当にきつかった。左ひざの痛みがあると、「まずはやろうか」という気持ちが霞んでしまう。健康第一――この言葉を改めてかみしめた一日でもあった。

今年の抱負

この経験から、今年の抱負はシンプルに決めた。

「安心して進む」こと。そして「健康を守る」こと。

進んだ道が間違いなかったと胸を張れるように、日々の選択を大切にする。さらに、体が資本であることを忘れず、無理をしない。左ひざの痛みが教えてくれたのは、挑戦も継続も健康あってこそという当たり前の事実だ。

だから今年は、
・仕事も人生も「進む」ことを恐れない
・そのために「体を整える」ことを怠らない

この二つを軸に、2026年を歩んでいきたい。

一年の計は元旦にあり?いや、大晦日に決意した話

大晦日に今年への想いは決意したので、元旦に特別なことはしなかった。
ただ、長い旅に出ていた娘が帰ってきて、4時間ほどいろいろ話ができたのは極上だった。これだけで今年はいい年になりそうだ。マジで幸先がいい。

それに呼応するかのように、今日は膝の調子が良かったのでショッピングセンターを歩き回り、カラダを使った。
「正月だから呑んじゃえ」とも思ったが、明日はラグビー大学選手権があり、一般参賀にも出かける予定。そこで自分に問い直した――本当はどうしたいのか。

自分に問い直す時間

呑むことは自分にとってご褒美のようなもの、、、でも続けてしまうと、その効力がなくなる。そして呑めば思考が止まり、行動が止まってしまう。言うならば、一日が終わってしまう。それが何よりも勿体ないのは分かっている。

だから考えた。どうしたいのかと。
ココロは、読書やウォーキングで頭とカラダを使いたいということだった。

惰性ではなく意図して動く一年に

大事なのは惰性ではなく、意図して行動すること。それがコンディションを整えていくのに、とても大事な要素なんだと思った

やる気は行動で起き上がり育っていくものだ

そういった意味で正月も思い通りに出来たことは良かった

well being それではまた!!

大学受験を控えた娘に贈る言葉|大晦日に考えた挑戦の意味

大晦日、静けさの中で

朝から空気が澄んでいた。窓の外には冬の陽が低く差し込み、庭の木々の影が長く伸びている。妻と次女は、荷物を抱えて妻の実家へと旅立った。玄関のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた気がした。家の中は急に静かになり、時計の秒針が刻む音が耳に残る。

自分はというと、正月酒や刺身を諸々買い込み、冷蔵庫に並べて満足したところだ。夜になれば、ひとりで晩餐を楽しむつもりだった。そんなふうに思っていた矢先、長女から進学の相談が舞い込んだ。

大学受験を目前に控えた今、どこをどう受けるのか、最後のところで迷いがあるらしい。スマホ越しに聞く声は、少し不安を含んでいた。思わぬ「お年玉」をもらったような自分は親として、何を伝えるべきか。言葉を選びながら、心の底から出てきた言葉を紡いだ

「まずは、良い無茶をしてほしい。」

打算を打つのはいつでもできる。安全策を取るのも簡単だ。でも、若い今しかできない挑戦がある。自分のココロが本当に望む方向へ進んでほしい。合格かどうかは大学が決めることだ。自分で割り引く必要はない。思いっきりやってほしい。つまらない打算は、ずっと心に残ってしまう。そんな後悔だけはしてほしくない。

電話を切ったあと、しばらく窓の外を眺めた。夕暮れが近づき、空は淡い橙に染まっている。遠くで除夜の鐘の試し打ちが響いた気がした。年の瀬に、静かな家で交わした言葉。親としての願いはただ一つ、挑戦する勇気を持ってほしいということだ。

夜になれば、買い込んだ酒と刺身でひとりの晩餐が始まる。けれど、今日という日は、きっとその味よりも深く心に残りそうだ

well being それではまた!!