「やるかやらないか」だけに集中せよ|習慣化で未来を変える

やるか、やらないか。それがすべてだ

「出来るか出来ないかではなく、やるかやらないかである」
この言葉は、何度も耳にしてきた。だが、今ほどその意味を噛みしめている瞬間はない。

人は、始める前に「できるかどうか」を測ろうとする。
経験、能力、環境、時間――そのすべてを天秤にかけて、可能性を計算する。
だが、その計算に意味はあるだろうか?
未来は、計算の確からしさではなく行動の質量によってのみ形づくられる。
やると決めて動いた瞬間から、世界はわずかに変わり始めるのだ。

やり続ければ、大抵のことは到達できる。
もちろん、すべてが思い通りに進むわけではない。
だが、設計し、試し、修正しながら進む過程こそが、次の扉を開く鍵になる。
「やるかどうか」を決めるのは、やる前の印象でも、少しやってみた後の感覚でもない。
決めるのは、今この瞬間だ。

だから、迷いを捨ててキックする。
習慣になるまで、ただ続けることに集中する。
継続が成り立てば、たとえ今回の挑戦がうまくいかなくても、学びは残る。
その学びは、次の挑戦を支える土台になる。
諦め癖は、一度許せば何度でも戻ってくる。
だから、やるのだ。

やることは、誰にでも与えられた権利だ。
その権利を使うかどうか――それが、人生を分ける分岐点になる。
今日、あなたはどちらを選ぶだろうか?

well being それではまた!!

潔さの美学──101回目の早明戦が示した勝敗を超える価値

人生の作法をみた

国立競技場に入った瞬間、空気が薄く震えていた。冬の透明な冷気を、数万人の体温と期待がじわりと押し上げる。早稲田と明治──101回目の早明戦。勝てば優勝の大一番。選手たちは、静けさの奥に熱を宿したまま、自分の持ち場へ歩いてゆく。視線はまっすぐ、肩の角度に迷いがない。たぶんその時点で、勝負はもう始まっている。

大学ラグビーには、ビデオ判定がない。レフリーのジャッジが絶対で、時間は戻らない。人の判断に委ねるという競技の宿命が、緊張と美しさを同時に生む。昨日も、明治のトライかと思われた場面が笛一つで取り消された。あの一瞬、明治の選手の胸に「おかしい」という言葉が立ち上がったはずだ。しかし、彼らはそこに留まらなかった。自分が影響できない領域を見切り、次に走る。顔を上げ、隊列を整え、ボールの落下点へ駆ける。あの切り替えの速さこそ、スポーツマンシップの核だと思う。

人はしばしば、影響できないことに囚われる。結果、他人のミスや運、不遇に自分の時間を差し出してしまう。だが大学ラグビーは、それを許さない競技だ。刻一刻と局面が変わり、判断の遅れは、次の攻防に容赦なく返ってくる。だから選手は、影響できるものとできないものを即座に仕分け、前者に全てを投じる。後者は、敬意をもって手放す。潔さは、ただの我慢ではない。選択の技術であり、集中の作法だ。

レフリーも人間だ。見えない角度があり、迷いもある。それでも彼らは、競技の秩序を背負い、覚悟を持って笛を吹く。昨日のジャッジも、たぶん最善を尽くした結果だ。試合後、クレームめいた声がどこからも立たないことに、胸が熱くなった。敗者にも勝者にも、悔しさや誇りの温度差はある。それでも互いの努力と緊張を尊重する文化が、大学ラグビーには根づいている。ここに、勝敗を超える価値がある。

「人事を尽くして天命を待つ」とは、努力を正当化する格言ではない。影響できる領域を徹底し、最後に結果を手放すという、精神の姿勢だ。昨日の早明戦は、その作法を目の前で示してくれた。
— レフリーの笛に揺れない。
— プレイの連続性の中で、感情を捌く。
— 次の瞬間に資源を全投入する。
この連続こそが、ゲームの質を押し上げ、勝負の美をつくる。

切り替えは才能ではない。鍛えられる。方法は単純だが難しい。
第一に、境界線を持つこと。自分が影響できる具体は何か──走る、当たる、支える、呼ぶ、蹴る。境界線の外にあるもの──風、笛、運、過去──を明瞭にする。
第二に、儀式を持つこと。深呼吸一つ、視線のリセット、声の合図。「次へ」を身体で宣言する。宣言が先、感情は後から追いつく。
第三に、敬意を持つこと。相手に、仲間に、そして自分に。敬意は、過剰な感情の暴走を静める。どれほどギリギリでも、敬意は判断を支える最後の地盤になる。

昨日のゲームの最中、幾度か「勝負が動いた」と感じた場面があった。戦術の妙というより、精神の針が揺れた瞬間だ。ミスの直後に、誰かが一歩前へ出る。走る速度は同じでも、意味が違う。あの一歩は、「過去」ではなく「次」に重心を移す意思の証明だ。こういう一歩が連鎖すると、チームの時間が前へ進み始める。逆に、過去へ重心が留まると、チームの時間は縮む。勝敗は、戦術と技術と体力に依存する。だがその前に、時間の扱い方にもう一段、目に見えない差が生まれる。

スポーツは人間の縮図だと言われるが、大学ラグビーには「未完成の気品」がある。プロの洗練にはない、揺らぎと伸びしろの美しさだ。だからこそ、レフリーの絶対性も、選手の不器用な切り替えも、その場の空気も、すべて含めて一つの物語になる。昨日の早明戦もそうだった。勝敗の重みを抱えながら、誰もが潔さを選んでいた。潔さは、敗者にも勝者にも似合う。そこに、大学ラグビーの普遍がある。

ゲームが終わる。歓声が波になって遠ざかり、芝の匂いが急に近づく。スコアは確定し、写真は保存される。だが、余韻は保存できない。余韻は、その場にいた者の胸の内で発酵する。昨日の余韻は、こんな言葉に落ち着いた。
「影響できるところだけをやる。勝負は天命に任せる。だから前へ。」
簡単で、たぶん一生難しい。何にしてもこんな素晴らしき大学ラグビー、、、また好きになった。

well being それではまた!!

捉われる人間、解き放つ赦し──譲るのではなく、自分を取り戻すために

赦すということ

赦すという行為には、どこか「譲歩」や「妥協」のような響きがある。自分が何かを譲ってしまったような、相手に負けたような、そんな気持ち悪さが残ることもある。特に、理不尽なことをされたときや、納得できないまま終わった関係においては、「赦す」という言葉がまるで自分を裏切るように感じることもある。

でも、赦すことで解放されるのは、他でもない自分自身だ。

人は、相手に何かを伝えようとする。理解してほしい、謝ってほしい、認めてほしい。ギリギリまで言葉を尽くしても、届かないことがある。むしろ、届かないことの方が多い。それなのに、なぜか人間はそこに執着してしまう。心の中で何度も繰り返し、あの時の言葉、あの時の態度を思い出しては、また傷つく。

捉われる。それが人間だ。

完全に捉われないで生きることは、ほぼ不可能だ。記憶がある限り、感情がある限り、何かに引っかかりながら生きていく。でも、ある一定のラインを越えたら、もう赦免でいい。それは相手のためではない。自分のためだ。

赦すというのは、相手を許すことではない。自分を赦すことだ。

「もういいよ」と、自分に言ってあげる。「もうそこから自由になっていいよ」と、自分に許可を出す。それは、過去に縛られていた自分を解き放つ行為だ。赦すことで、心の中に空白が生まれる。その空白には、新しい風が吹き込む。新しい視点、新しい感情、新しい自分。

赦すことは、弱さではない。むしろ、強さだ。自分を縛っていた鎖を、自分の手で外す勇気だ。

そして、赦すことは終わりではない。始まりだ。自分を赦したその瞬間から、また新しい一歩が始まる。

well being それではまた!!

月曜の誘惑と、明日への余白

月曜日の出張と、飲みたい気分との折り合い

月曜日はいつも出張の日、、、就業を終えて朝から決まったコワーキングスペースに入る。ここでは、誰にも邪魔されずに集中できる環境が整っていて、週のスタートを整えるには最適だ。そんな月曜日、今日は少し違う気分だった。

ふと「飲みたいな」と思った。理由ははっきりしない。疲れが溜まっているのか、気持ちの切り替えが必要なのか。ただ、冷静に考えてみると、今日は「中一日」。つまり、昨日は飲んでいないが、週の流れとしてはまだ早い。自分の中で決めている「適切な飲酒日」ではない。

それに、ひとりで何となく飲むのは、どうも性に合わない。誰かと一緒に、会話を楽しみながら飲むほうが、断然おいしい。そう思うと、今日飲む理由は見つからない。むしろ、明日飲めばいい。明日なら、妻と一緒に出かけることもできるし、共有できる「おいしさ」には価値がある。

こうして、飲みたい気分を整理していくと、ルーチンを守ることの大切さが見えてくる。月曜日は集中の日。飲むよりも、やるべきことを進めて、早く眠るほうが自分には合っている。ホテルに泊まっているからこそ、静かに休むこともできる。これは出張のメリットでもある。

「少し疲れているときに飲みたくなる」という傾向は、これまでの経験からも分かっている。だからこそ、今日は飲まない選択をした。その代わり、ブログを書いて気持ちを整理する。これもまた、自分なりのセルフケアだ。

月曜日は乗り越えた。明日からも、穏やかに進もう

well being それではまた!!


風が通る場所に次の一歩がある

「ゼロでなければ積みあがる」──朝のルーチンがくれる確かな一歩
畳敷きに敷いてある布団を朝あげると、モアっと寝ていた気があがって風が通る。空気が入れ替わるその瞬間、身体も心も切り替わるような感覚がある。昨日までの疲れや迷いが、風とともに外へ抜けていくような、そんな清々しさがある。

そこから神棚の水を変えてお参りをする。手を合わせる時間はほんの数十秒だが、心の芯がスッと整う。これが出来ていると、やっぱりしっくりくる。自分なりのルーチンが整っていると、朝のスタートが自然と決まる。誰かに強制されたわけでもなく、ただ自分が「そうしたい」と思って続けていること。それが、日々の土台になっている。

今朝も変わらない朝だ。難しくなるはずがないと、自然と建て付けている。何かを始めるとき、つい構えてしまうことがあるが、実はもっと自然でいい。肩の力を抜いて、まず一歩を踏み出す。そうすれば、次の一歩もまた自然に出てくる。

今日の一歩は、たった一歩かもしれない。でも、それが“複利”で明日以降の未来へ積み重なる。たった一歩でも、ゼロでなければ積みあがるのだ。ゼロではないということが、何よりも大事。動いた分だけ、確実に何かが変わる。それが見えなくても、感じられなくても、確実に積み重なっていく。

そして、そんな一歩を踏み出せる自分であるために、朝のルーチンがある。布団をあげ、風を通し、神棚に手を合わせる。そんな何気ない習慣が、今日の自分をつくっている

よし今日も‼︎

well being それではまた‼︎