議場は舞台ではない──野次が壊す政治の信頼

国会の野次に思うこと──所信表明演説の場にふさわしい振る舞いとは

高市さんによる総理所信表明演説が行われた。国の方向性を示す重要な場であり、国民の多くが注目する瞬間だ。だが、毎度のことながら、議場に響く野次には違和感を覚える。あの場で何を目的に、あのような言葉を発するのか、、、演説の腰を折るような揚げ足取り、罵声に近い言葉の応酬。そこに議論の建設性はあるのだろうか。

聞いていると、いつも同じ議員が繰り返しているように感じる。あの行動で目立って、自分の評価が上がるとでも思っているのか?国民の目がある場で、子供からお年寄りまでが見ている。そんな場で、あのような振る舞いを見せて恥ずかしくないのか。むしろ、政治への信頼を損なう行為ではないか。

言いたいことがあるなら、正々堂々と論戦を申し込めばいい。人が話している最中に遮ってまで言い募る姿勢は、議論ではなく妨害だ。議場はパフォーマンスの場ではない。政策を語り、国民に説明する場だ。野次を飛ばすことで自己顕示を図るのは、政治家としての本分を見失っているように思える。

特に所信表明演説は、総理が国の方針を述べる場であり、他の議員がその場で発言する権利はない。それを理解していながら、あえて声を張り上げる姿勢には、政治家としての品格を疑わざるを得ない。当選したあなたに期待されているのは、そんな振る舞いではない。国民の代表として、誇りを持って議場に立ってほしい。

このような振る舞いが続けば、政治そのものが軽んじられる。子供たちが「政治とはああいうものだ」と誤解してしまうかもしれない。教育の場でも、社会の場でも、礼儀や対話の重要性が説かれている中で、国会がその模範を示せないのは残念だ。

議論とは、異なる意見をぶつけ合い、より良い答えを導くためのものだ。野次ではなく、対案を示し、理路整然と語ることでこそ、政治家としての力量が問われる。議場に響くべきは、怒号ではなく、未来を語る言葉であるべきだ。

さらに言えば、野次という行為は、議会制民主主義の根幹を揺るがす危険性すら孕んでいる。議会は、国民の意思を代弁する場であり、そこでは冷静な議論と熟慮が求められる。野次によって議論の流れが断ち切られ、感情的な応酬に終始するようでは、国民の期待に応えることはできない。

政治家は、選挙によって選ばれた「公人」である。その言動は常に見られており、評価されている。議場での振る舞いは、単なる個人の表現ではなく、国民の代表としての責任を伴う。野次を飛ばすことで一時的に注目を集めたとしても、それが信頼や支持につながるとは限らない。むしろ、冷静に議論を進める姿勢こそが、長期的な信頼を築く道ではないか。

最後に、私はこう問いかけたい。あなたはその野次を、子供たちに見せたいのか?あなたを支持する有権者に誇りを持って見せられるのか?その答えが「NO」であるならば、今こそ振る舞いを改めるべき時だ

well beingそれではまた!!


投稿者: Keiichi Nakadai

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