立教に快勝、筑波に驚愕──足利で見た学生ラグビーの現在地

雨の日曜日、明治ラグビーと向き合う

雨模様の日曜日。空気は重く、気持ちもどこか沈みがち。そんな中、母校・明治大学ラグビー部の試合観戦に向かう足が鈍ったのは、先般の筑波戦での敗戦が尾を引いているからかもしれない。あの試合は、明治らしさがまるで見えず、試合運びも精彩を欠いていた。負けるべくして負けた、そんな印象が強く残っていた。

それでも、思うようにいかないからこそ応援したくなるのが学生スポーツの魅力だ。行ったり行かなかったりし始めると、どんどん心が離れてしまう。応援とは、勝っている時だけするものではない。むしろ、負けた時こそ、足を運ぶ意味がある。だからこそ、今日は「とにかく行く」と決めた。

足利での立教戦。明治は立教に圧勝した。久々に安心して観ていられる試合だった。スクラムもラインアウトも安定し、展開もスムーズ。選手たちの動きに迷いがなく、観ているこちらも自然と前向きな気持ちになった。やはり現地で観ると、選手たちの気迫や空気感が伝わってくる。雨の中でも、観戦に来てよかったと思える瞬間がそこにはあった。

そして、ここまで来たからと、続けて行われていた帝京 vs 筑波の試合も観戦することにした。王者・帝京がどこまで仕上がっているか、筑波が少しは食いつくかと見始めたが、予想を遥かに超える展開に息を呑んだ。フィジカル全体では負けていないと感じる場面もあり、最後は筑波が帝京に勝ってしまったのだ。

学生スポーツだからこそ、そして今日この場で勝つか負けるかという状況の中で、勝ち続けてきた帝京に敢然と立ち向かった筑波の姿勢に感動した。勝つことが目的ではあるが、それ以上に「挑む姿勢」が観る者の心を打つ。筑波は今シーズン、明治にも勝っている。あの試合は明治の試合運びがあまりにも悪かったから…と思っていたが、筑波はここで自信を得て、急速な成長を見せている。これが学生スポーツの面白さであり、怖さでもある。

明治は立教に勝ったことで、少しは立て直しの兆しが見えた。だが、筑波のように「負けから学び、勝ちに転じる」姿勢を持てるかどうかが、今後の鍵になるだろう。応援する側としても、勝った負けたに一喜一憂するだけでなく、チームの成長を見守る視点を持ちたい。雨の日に足を運んだことで、そんなことを改めて考えさせられた

well being それではまた‼︎

議場は舞台ではない──野次が壊す政治の信頼

国会の野次に思うこと──所信表明演説の場にふさわしい振る舞いとは

高市さんによる総理所信表明演説が行われた。国の方向性を示す重要な場であり、国民の多くが注目する瞬間だ。だが、毎度のことながら、議場に響く野次には違和感を覚える。あの場で何を目的に、あのような言葉を発するのか、、、演説の腰を折るような揚げ足取り、罵声に近い言葉の応酬。そこに議論の建設性はあるのだろうか。

聞いていると、いつも同じ議員が繰り返しているように感じる。あの行動で目立って、自分の評価が上がるとでも思っているのか?国民の目がある場で、子供からお年寄りまでが見ている。そんな場で、あのような振る舞いを見せて恥ずかしくないのか。むしろ、政治への信頼を損なう行為ではないか。

言いたいことがあるなら、正々堂々と論戦を申し込めばいい。人が話している最中に遮ってまで言い募る姿勢は、議論ではなく妨害だ。議場はパフォーマンスの場ではない。政策を語り、国民に説明する場だ。野次を飛ばすことで自己顕示を図るのは、政治家としての本分を見失っているように思える。

特に所信表明演説は、総理が国の方針を述べる場であり、他の議員がその場で発言する権利はない。それを理解していながら、あえて声を張り上げる姿勢には、政治家としての品格を疑わざるを得ない。当選したあなたに期待されているのは、そんな振る舞いではない。国民の代表として、誇りを持って議場に立ってほしい。

このような振る舞いが続けば、政治そのものが軽んじられる。子供たちが「政治とはああいうものだ」と誤解してしまうかもしれない。教育の場でも、社会の場でも、礼儀や対話の重要性が説かれている中で、国会がその模範を示せないのは残念だ。

議論とは、異なる意見をぶつけ合い、より良い答えを導くためのものだ。野次ではなく、対案を示し、理路整然と語ることでこそ、政治家としての力量が問われる。議場に響くべきは、怒号ではなく、未来を語る言葉であるべきだ。

さらに言えば、野次という行為は、議会制民主主義の根幹を揺るがす危険性すら孕んでいる。議会は、国民の意思を代弁する場であり、そこでは冷静な議論と熟慮が求められる。野次によって議論の流れが断ち切られ、感情的な応酬に終始するようでは、国民の期待に応えることはできない。

政治家は、選挙によって選ばれた「公人」である。その言動は常に見られており、評価されている。議場での振る舞いは、単なる個人の表現ではなく、国民の代表としての責任を伴う。野次を飛ばすことで一時的に注目を集めたとしても、それが信頼や支持につながるとは限らない。むしろ、冷静に議論を進める姿勢こそが、長期的な信頼を築く道ではないか。

最後に、私はこう問いかけたい。あなたはその野次を、子供たちに見せたいのか?あなたを支持する有権者に誇りを持って見せられるのか?その答えが「NO」であるならば、今こそ振る舞いを改めるべき時だ

well beingそれではまた!!


“目的”を焦らず、“場”を楽しむ——半年間の振り返り

まずは否定しないでやってみる——地元経営者団体に入って半年のレビュー

地元の経営者団体に入って、半年が過ぎた。そろそろ一度、自分なりにその効果をレビューしてみたいと思う。

まず、結論から言えば、直接的な成果はまだ得られていない。契約が取れたわけでも、売上が伸びたわけでもない。だが、それは当然のことだとも思っている。そもそも「この人だ」と思ったら、その会の場だけで終わらせるのではなく、日中に個別で会いに行くくらいの動きが必要になる。そこまでのグリップは、まだ自分にはできていない。

それでも、不思議と懇親会が楽しい。誰が上で誰が下で、という空気がまったくなく、すべてがヨコヨコ、、、年齢も肩書きも関係なく、同じ目線で話せる場があるというのは、実はとても貴重なことだ。その雰囲気が、自分にはとても合っているのだと思う。とにかく居心地がいい。これは、望んでもなかなか巡り合えないものだ。

目的、目的、、、と功を焦らず、じっくりやっていくのも悪くない。そんな心づもりで軽やかに過ごしていたら、ふとお気に入りのお店を見つけた。これも、どれだけ久しぶりだろうか。何かを得ようと力むのではなく、まずはその場に身を置いてみる。そうしてみると、思いがけない出会いや発見がある。

この半年で得た一番の気づきは、「まずは否定しないでやってみる」ことの大切さだ。最初から「意味がない」「時間の無駄」と決めつけていたら、今のような居心地の良さも、お気に入りのお店との出会いもなかっただろう。

人との関係も、場との関係も、まずは動いてみることから始まる。その一歩が、次の何かにつながる。成果はまだ見えなくても、確実に何かが動いている。そんな実感を持てる半年だった。

そして、これからも焦らず、構えず、軽やかに関わっていきたい。結果は後からついてくる。まずは、自分の足で歩いてみること。自分の言葉で話してみること。その積み重ねが、やがて大きな意味を持つと信じている。

well being それではまた!!

見透かされる怖さと向き合う

「伝える」ことの重みを思い知った日

ある講座に頼まれて参加した。参加者は経営者ばかり、、、、つまり、時給一万円クラスの人たちを呼んで開催されている場だ。にもかかわらず、講師のプレゼンはたどたどしく、自分で作ったものですらない。そこに込められた想いや、伝えたいという熱量は感じられなかった。

語弊なく言っておきたいのは、これはその方を晒したいわけではない。むしろ、自分自身への問いかけとして記しておきたい。

「これほどとは…」と驚きつつ、ふと自分の講座はどうだろうかと冷や汗がにじんだ。自分も似たり寄ったりになっていないか? 期待を裏切っていないか? そんな問いが頭をよぎった。

講座とは、単なる情報の提供ではない。自分の言葉で語ること、自分の経験を通して伝えること、それがあって初めて「伝わる」。伝えたい・伝えたい・伝えたいという想いが満ちていなければ、聞き手の心には届かない。手を抜けば、すぐに見透かされる。その怖さを、改めて思い知った一日だった。

聞き手は、言葉の奥にある「本気」を敏感に感じ取る。だからこそ、自分の講座では、伝えることに対して誠実でありたい。誰かをなぞるだけでは、魂は宿らない。講座の場は、聞き手との真剣勝負。その覚悟を持って充分なる準備を繰り返して臨まなければ、信頼は築けない。

この体験は、自分の講座を見直すきっかけとなった。伝えることの重みを、もう一度噛みしめながら、次の講座に向けて準備を進めたい。

well being それではまた!!

「研修は自分を整える場」―集客よりも、自分のためにやるという選択

「自分のために研修をする」という選択

群馬県庁32階のセミナースペース。
ここを月に2回まで使えるという制度がある。
今年に入ってから、毎月1回は必ず研修を実施してきた。
でも、2回まで使えるなら、プラスでやる、、、やってみたいと思うようになってきた
というのも今、NLP(神経言語プログラミング)を取り入れたカリキュラムを実施してみたいという衝動がある。

なぜそう思うのか。
それは、先生のサロンで繰り返しNLP講座を聞いているうちに、
「ああなる、、、こうなるには、心理学的な理屈・原理原則がある」と腑に落ちたからだ。
意志力を振り絞らなくても、ナチュラルに人を誘える、、、
それが、選択肢の幅と量を増やし、豊かな人生を送るサポートになる。
ならば、やらない手はない。

そして、もし自分しか救えない人がいるなら。
自分がそういう使命を帯びているなら、、、
(そんな使命はすべての人が持っているだろうが)
そう思うと、研修の回数は「適切に多いほうがいい」と思えてくる。

チャンスはある。
でも、集客できるのだろうか?
そんな不安もよぎる。
けれど、これは集客の問題ではない。
研修をするほどに、自分自身が建て付けられていく。
だから、自分のためにやればいい。
その先に、自分しか救えない人が続いている。

研修は、自分を整えるための場であり、誰かの人生に届くための手段でもあるのだから

well benig それではまた!!